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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

哲学は不要という哲学

2007年05月24日 | 5哲学する人間を科学する

これは、現代人の脳が、生存繁殖に役立たないほうにずらされてきているということでしょうか? いや、そういうことは、まずないでしょう。人間は、予測する能力を持っているけれども、うまく予測できないときは適当に諦める、という能力も持っている。「分からないことを、いつまでも悩んでいてもしかたないや。くよくよ考えるのは、もうやめだ」と思うわけです。現代哲学の開祖と言われる大哲学者も、「言葉で言えないものはどうしようもない」というようなことを言っています(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』)。ふつうの大人は、もちろん、哲学の問題のようにはっきりした解決がなさそうな物事にいつまでもかかわっていてはいけない、と常識的に考えます。そのバランスで、現実の世界をうまく生きていくのです。

西洋哲学の開祖といわれる古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、「知らないということを知ることが大事なことだ」などと言ったと伝えられていて、哲学の教科書には、それが立派な認識(知を愛する、愛知=哲学のこと)なのだ、と書かれています。しかし、筆者に言わせれば、それはあまり立派な認識ではなくて、むしろ、「知らないということを知らないことが大事なことだ」とでも言ったほうがよかったと思います(その場合、教科書には載れませんが)。

世の中の物事は、分らないと言い出せば、実は、だれにも何も分らないことだらけ。そうではあっても、分らないと気づかずに自分は何もかも大体分かっていると思い込んで行動するほうが、たいていはうまくいくものです。とにかく人を説得するには、分かったふうな顔をして分かったふうに語らなくては、だれもついてきてくれません。哲学は不要という哲学を持つ。そのためには、自分に対して理由のない自信を持たなくてはだめです。つまり、自分が知らないことはたいしたことではないのだ、と信じている人のほうが世の中で成功する確率は高いでしょう。

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「自分の命」はなかった

2007年05月23日 | 5哲学する人間を科学する

原始時代の人々は、物質でないものには、ほとんどこだわらなかったでしょう。命や心のような錯覚の存在を、漠然と感じることはあっても、それが物質世界とどう関係するのか、などという問題を仲間と話し合い、哲学研究学会を作って徹底的に追求する、という気持ちはなかったと思われます。

農耕社会になって、一年計画で作物を栽培する必要から豊作占いや雨乞いが生まれ、豊作の神、凶作の神、疫病の神、死の神などが生まれたのでしょう。それらの超自然的存在は言葉で名づけられ、呪術、儀式、宗教などで現実の物質世界との関係ができていたわけです。それらは人間の感情に強く結びつき、誰もが共感できるものだったでしょう。脳の感情回路に響く錯覚を作り出しやすい運動感覚シミュレーションを引き出すものだったはずです。そこから、私たち現代人が共有している「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」などの観念が作り出されていったのでしょう。

それらの観念は、まず部族の管理と呪術を担当する支配者階級と聖職者階級の関心事となり、次に、宗教、哲学などの体裁を整えて徐々に下層の階級に浸透し、中世以降は、すべての人間の生活に優先する重大事、とみなされるようになっていったのです。

現代では、ほとんどの人が、わが身自身の将来、つまり「自分の命、自分の人生、自分の幸福、自分の健康、自分の財産、自分の地位がどうなるのか? 自分が死ぬか死なないか? 幸福になるのか不幸になるのか?」という問題が最大の関心事、と思い込むようになってしまいました。宗教や哲学が普及する数千年前まではこんな事態はありえなかったことを、誰も覚えていません。

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物質でないものを指差す

2007年05月22日 | 5哲学する人間を科学する

物質世界のものを指差して、物質でないものを語れるのか? 物質を比喩に使って語ればよいのか? 物質の中に、物質でないものが入っているかのように語ればよいのか?

 物質としての生物を指差して「命」を語る。物質としての人体を指差して「心」を語る。目の前の物質を指差してその「存在」を語る。物質としての音声や文字を指差して「言葉」を語る。物質として自分の肉体を指差して「自分」を語る。・・・

私たちが物質でないものについて思うことや感じることは、こういうやり方で言葉を使うことでしか、他人に伝えられません。しかし、これで、話し手の感じていることが聞き手に、正確に伝わるのでしょうか? 

そのとき指差している物質の中には、実は、物質以外のものは入っていない。生物の内部には、細胞、分子、原子、素粒子、つまり物質しかない。人体の内部にも、他の生物と同様の物質しかない。「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」。こういうものはどの物質の中にも入っていない。物質として存在しないのです。この世で、いくら、何かを指差しても、それは物質を指差していることでしかないのです。物質しか指差せない世界で、物質でないものを語ろうとすれば、言葉は結局のところ、空転していくしかないでしょう。それでも、人間はこういうものの変化を予測したい。それを他人に伝えたい。それを予測し、人に伝えようとする哲学は、言葉を使うしかないから必ず間違う。それなのに、人間は、かなり強烈に、それをしたいのです。

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科学は物質しか相手にしない

2007年05月21日 | 5哲学する人間を科学する

ずっと昔は宗教が立派で、哲学的なこういう疑問にも答えてくれました。たとえば、「ただ、ひたすら祈りなさい」とか説得力ある答をくれました。ところが今は科学のほうがずっと立派そうですから、宗教の言うことは説得力がない。ふつう頼る気がしないのです。

その上、近代や現代の哲学はだめです。論理と言語技術に優れた人たちが哲学に集まったため、かえって難しい言葉や理論ばかりを作って空転していきました。それで、科学が疑問に答えてくれると良いのですが、答えてくれない。科学者は科学者どうしの競争で忙しい。科学者は実は余計なことを考える余裕がないのです。ただ、そうは言わないで、自分は哲学の問題に興味はないという態度をとります。困ったことです。興味がないというよりも、哲学の問題はどう考えていいか分からないから考える気になれない、やれることがはっきりしている科学を先に進めてしまいたいと思っている、というのが実情です。そういうことで、結局、科学は物質世界専門で物質の話以外は相手にしない、ということになっています。それで人々は、科学も宗教も頼りにならない、やっぱり人生は謎なのか、自分は何も分からないまま死ぬしかないのか、とあきらめるのです。

 もともと素朴な人々の疑問は、自分の運命のこと、死とか自分のアイデンティティのこと、人生のこと、幸福のこと、あるいは、この世の根源の神秘、ということですから物質の話とは違います。だからふつうの人間は、科学の言葉にはあまり興味がない。むしろ、命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・そういうものの正体を知りたいわけです。こっちのほうが物質の話よりもずっと大事だという気がするのです。

そういう人が哲学をしたいのです。ところが言葉で哲学を語ろうとするとたん、物質世界を足場にして立つしかない。人にものを伝えようとしたとき、本当に頼りになる足場は誰とも共有できる、目に見えて手で触れる物質世界でしかない。物質世界にないものを語らいたくても、それを目に見せるわけにはいきません。それでしかたなく物質世界に関する言葉を使って類推や比喩をするしかない。それではあいまいな言い方しかできないわけです。

そうなると確かに語れるものは、結局、科学しかないかもしれない。言葉を使う以上、物質世界を指差さないと、正確に語れないからです。

拝読ブログ:科学と宗教

拝読ブログ:現実。。。。。。。。

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「哲学する人間」のイメージ

2007年05月20日 | 5哲学する人間を科学する

Hatena47 この人たちは、命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・ こういう目に見えないものがどう動いていくのか、こういうものたちが、物質世界での、過去、現在、未来の自分の身体の運動とどう関係していくのか? 予測したくなったのです。

こういう類の問題は、原始時代には、たぶんあまりなかったのですが、農耕社会が発展して人間関係が複雑になり、特に文字文明が発展すると出てくる。出てきますね。経典が書かれ詩歌が書かれるようになると、もうこういう言葉が毎日活躍するようになってしまいます。それを商売にして生活する言語技術者たちが栄えるようになるわけですね。

生活に余裕のある人たちは、言葉の綾に敏感になるのでしょう。死とか自我とか幸福とか正義とか社会的認知とか、に深い意味を求めるようになるのです。あるいは、宇宙とか、無限とか、存在とか、美とか、真実とかに神秘を感じるようになるのでしょう。古代ギリシアの哲学は、奴隷に労働をまかせて暇になった有閑市民たちの間で生れました。現代の先進国では庶民の私たちも、古代ギリシアの市民(とか近世の旦那衆?)くらいには、生活の余裕ができてきたのでしょうか。

そうなるとそこから哲学が始まり、その哲学は(筆者に言わせれば)すぐ間違えていくのです。言葉を文字で書き留めることで論理的に考えるようになる。抽象的な議論が好きになる。人生をゲーム的に考える。仲間とそういう話題で盛り上がる。それでこれらの哲学的、文学的な言葉が大事がられるようになったのです。

「哲学する人間」を科学すると、ざっとこんなイメージになるでしょう。

拝読ブログ:世界は中世へ逆戻り

拝読ブログ:踏み台をはずせ!

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