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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

言葉の意味とはたいした意味ない言葉

2006年12月25日 | 2言葉は錯覚からできている

それにもかかわらず、年上のお姉ちゃんの真似をする幼女のように、他人の動きをよく見て真似をして身体を動かしながら何度も繰り返して同じことを言い続けることで、どんなときにそれを言えばよいのか、身体で分かってくるのです。状況全体で言葉の使い方を示していくやり方がうまくいく場合、個々の言葉の意味が不明瞭な場合でも話全体は明瞭に伝わっていきます。もともと、言葉の意味などというものは、たいした意味はない言葉なのです(駄洒落のつもり)。この言葉の意味は何か、と聞かれたとき、私たちができることは辞書のように言葉を別の言葉で言い換えることだけです。それ以外に言葉の意味がある、と思うことは錯覚でしょう。将来、言語学、あるいは言語哲学が進歩すれば、言葉の意味がはっきり分かるだろう、と期待しても無駄です。そういう意味での意味というものは存在しません。意味は意味ない(駄洒落になっているか?)。人間にとって言葉で説明できる言葉の意味とは、辞書を引いて分かるような意味のあり方しかないのです。

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小学生、命を理解する

2006年12月24日 | 2言葉は錯覚からできている

それを聞いて小学生は「ふうん、そうなのか。分かった」と言うでしょう。そう言うしかないのです。答えてくれた大人の顔を見ればその意味が完全に分かっている、という自信に満ちた顔をしています。大人が自信たっぷりに答えてくれたことにそれ以上の答えがあるはずはないのです。子供は、よく分りました、という顔をしながら「生きているってことが、命があるっていうことなのかな? 生きているか生きていないか、は大事なことなのかな?」と思うわけです。こういうあいまいな会話をしていくことで子供たちは、命とは何かを漠然と学ぶしかないわけです。

「命」、「心」・・・、物質を指さないこれらの言葉は、物質を指す言葉のように「この言い方は、実験観察の事実に反しているから間違っている」とか、「この言い方は、いつも繰り返し起こる実験観察の事実を言い表しているから正しい」というような精密な判定もできないのです。

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欲望が・・・

2006年12月23日 | 2言葉は錯覚からできている

Hatena12 「命が一番大事」、「心が一番大事」、あるいは「欲望が・・・」などといつも言い合っていると、なんとなく気持ちが通じ合って具合が良いのですが、言葉のあいまいさ以上に、はっきり通じ合うということはありません。

「命が一番大事って、どういうこと?」

 小学生なら、大人にこういう質問をしてもおかしくありません。まあ、いまどきの小学生はこういう質問をして、いかにも小学生らしく見せたい、という演技心(小学生は、ふつう、小学生を演じています。筆者が筆者を演じているように)もあるかもしれません。それでも何割かは、まじめに答えを知りたいという気持ちはあるでしょう。

大人は内心、困ったな、と思いながらも、いかにも自分は大人だからそういう質問にも答え慣れている、という顔をして答えるわけです。

「生きていることが一番いいってことさ。死んでしまったら何もできないだろ?」

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心は目に見えないから伝えられない

2006年12月22日 | 2言葉は錯覚からできている

「これが私の心だ。触って確かめてくれ!」

「ああ、アッタカイ! 心というのは、こんなに暖かいものだったのね」

「そうだ。そこに君の顔が写っているだろう。私は君のことだけを思っているのだ」

「ああ、私の顔がこんなに大きく写っている。私のことを、こんなに強く思っていてくれるのね!」

 という調子で会話できれば、思いのたけが伝わって少女漫画のように相思相愛になれるはずなのですが、現実はこうはいきません。相手の心は目に見えませんから、人間の会話は、なかなか思うところを伝えられないのです。それは、心というものが、互いに目に見えないものだから伝えられないのです。

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物質vs非物質

2006年12月21日 | 2言葉は錯覚からできている

物質に関する言葉は、お互いに目の前のその物を見ながら話せば何を言っているのかはっきり分かります。いろいろな物を指差して名づけ、繰り返し起こる物質現象を話し合えば話し合うほど、に関する仲間との相互理解は深まっていくのです。

それら物質現象に関する知識は蓄積され、それを表現する精密な言葉が発達し、それらは組み合わされて生活の知恵となり、一般常識となり、専門技術となり、ついには科学に発展し人類の繁栄に結びつきました。

一方、物質を指さない「命、心、欲望、存在・・・」というような言葉は、誰もが重要なものだと思いながらも、目に見えず手でも触れません。「これが心というものだ。触って確かめろ」と言って指し示すことができません。それでしっかりした観察実験記録もできなかったために、精密になりようがなかったのです。

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