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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

言葉とは何者なのか

2006年12月30日 | 2言葉は錯覚からできている

こうして言語技術を鍛えられた西洋の知識人たちが使う概念と論理は言葉の信頼感を高めました。言語技術に優れた人々が社会の指導層となり、法律や儀式や制度や書式を作りました。印刷術が発明されて大量の複写が可能となりました。同時に役所や裁判所、学校や教科書や辞典など言葉の使い方を精密に管理する社会的な装置が作られていったのです。それらの装置に言葉の信頼感は担保されて、言葉は話し手や聞き手の人体から離れて客観的に存在できるようになり、ますます信頼され、使いやすく便利になっていきました。

その結果、西洋の人々は何事も言葉で解決しようとするようになりました。それら明瞭な言葉の使用は、宗教、法律、商業、科学、工学の基礎を固め、ルネッサンス以降、西洋文明の大発展を支えました。

しかしそれらのおおもとになっている言葉そのものに関しては、うまく基礎を固めることはできませんでした。言葉とは何か、人間はいまだに理解できない。言葉そのものが何者なのか分からないのに、それを組み合わせて立派な理論が作られる。

もともと言葉だけで作られる理論は、数学のように論理の形式だけは明瞭で完璧ですが、物質世界のどこに正しく当てはまるのか当てはまらないのか、検証のしようがありません。言葉だけで作られる架空の世界の中では、言葉どうしの関係はどこまでも精密に明瞭になれるのですが、その世界と目に見える現実の物質世界との関係はいつまでも曖昧なままで、結局はしっかり繋がりません。

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上流家庭の子供達はラテン語で会話

2006年12月29日 | 2言葉は錯覚からできている

それだけ重要なものとなった言葉という技術を、子供たちにはぜひとも身につけさせなければなりません。そこで西洋社会では、言葉の使いこなし方を教える哲学が基礎的な教養とされ教育の基本になったのです。

哲学者は教育者として職業を得、ギリシア・ローマの言語と古典哲学を教養として若者に教えました。大学の教師となり、あるいは上流家庭に住み込んで子供達にギリシア語ラテン語を教えました。

コギトエルゴスム(考えるから私があります)」

「コギトエルゴエド(考えるから食べます)」

「コギトスメレポトゥム(飲み物をいただこうと思います)」

というふうに、家庭でも子供達はラテン語で会話させられました。何か言う前にコギト(私が思うのだが)という言葉をつける訓練です。読者のお子さん、あるいはお孫さんが二歳くらいだったら、こういう言い方を教え込みましょう。「ワタシガオモウノダケド、ワンワンがいる」とか、「ワタシガオモウノダケド、ワタシがいる」などとしゃべる二歳児は、保育園で、自意識を持つ天才幼児と評判になるでしょう。

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数学と兄弟関係にある西洋哲学

2006年12月28日 | 2言葉は錯覚からできている

Hatena13_1完璧な形式論理で武装してはいても、実は裏側に作ってあるそういう運動感覚的な錯覚に支えられて数学はできているのです。現代の言語学者は、「算数はいくつかの身体運動、つまり前進と収集と組み上げ、という運動から作られている」(二〇〇〇年 ジョージ・レイコフ数学はどこから来るか:身体である心はどのように数学を存在させているか』)と述べています。数学は美しい抽象の衣をまとってはいても、実は人間の肉から生まれたその正体を最後まで隠すことはできません。

数学と兄弟関係にある西洋哲学も、このいわば数学的方法を駆使して次々と美しい理論を作っていきました。論理に優れた西洋の天才的な哲学者たちの努力のおかげで、このやり方は相当な成功を収めたようです。人間が使う言葉の意味は紛れもなく明快に感じられるようになり、誰がいつそれをしゃべっても書いても印刷しても、同じ意味を表すもの、と信頼できるようになったのです。

言葉は、聖書憲法のように、それ自体、紙の上に文字として並んでいるだけで人間を動かし社会を動かすもの、と思われるようになったのです。西洋の文化では文字で書かれた言葉は絶対的です。たとえば、『ヴェニスの商人ウィリアム・シェイクスピア一五九七年)』。異教徒のシャイロックの悪意を見抜いていても、ポーシャが扮した裁判官は署名された契約書の文面を一字一句、字句どおり実行するしかなかったのです。

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数学は運動か?

2006年12月27日 | 2言葉は錯覚からできている

数学などは、点とか線とかイメージだけで実体がない言葉を使い方ながらも、言葉の間の関係だけを抽象化し論理だけを徹底することで、完璧に明瞭な精密な理論を完成していきます。点とか、線とか、三角形とか、球とか、多様体とか、実体がないのにはっきりしたイメージが脳の中に浮かんでくるようになるのです。数学の先生が黒板に、それらしい図を書くから数学の意味が分かるのではありません。図はイメージを助けるだけで、実体はありません。数学は図などと関係なく、言葉の間の論理だけで理解できる理論として作られています。

点と言うと黒い小さな丸が目に見えるように感じます。しかし数学でいう面積がゼロですから光を反射も吸収もできず、地の色から区別できないはずですから目に見えるわけはないのです。それでも誰もが、「点」と言うとごく小さな黒丸が見えるような気がする。自分がその小さな黒丸をつつこうとしているような気がする。それは人間だれもが共感できる運動感覚の錯覚です。「点」という言葉はこの錯覚による共感からできています。

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「おちゃらか、ほい」とは何を言っているのか

2006年12月26日 | 2言葉は錯覚からできている

言葉の意味が分かる、ということは話し手が作り出す音声と運動を、聞き手が真似してみてうまくいく。聞き手は話し手に乗り移ったような気持ちになれる。「ああ、そうなの」とうなずくことでうまく気持ちがつながったように気になれる、ということなのです。それだけの単純なことです。

子供の会話は、まさにこれです。わらべ歌など意味不明の言葉の羅列です。「おちゃらか、おちゃらか、おちゃらか、ほい」とは何を言っているのか、意味としてはまったく分かりません。それでも子供は完全にこれらの言葉を使いこなして、不自由なく遊べます。遊んでくれるお兄ちゃんやお姉ちゃんの表情、声色、動作、を見て真似しているうちに、この言葉の使い方が、はっきり分かってくるわけです。「おちゃらか、おちゃらか、おちゃらか、ほい」と正しくリズムをつけて歌いながら、みんなと一緒にちゃんと遊べるようになる。人との間で言葉を使いこなす。使いこなせる。これが重要です。

つまり、その音節列(とイントネーション)をなぞって真似することで、それを話す人と聞く人とのそれぞれの内部で、同時に何かが起こっている。それが何か、ということ。つまり話し手と聞き手との間でどういう身体運動、あるいは仮想運動(身体運動に現れる直前の脳神経系上の運動指令信号形成のこと{筆者の造語})が互いの脳内で共鳴するか、ということ。それが、その言葉の意味なのだといってよいでしょう。

ここのところが人間の言葉の素晴らしいところでもあり、危険なところでもあるのです。

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