まず話し手が言葉を使って、自分が今思い浮かべている何かを精密に指し示そうとすると、そう単純に相互理解はできません。
話し手が指し示そうとしているものを、聞き手は目で見るか、脳内で思い浮かべるわけです。それがなかなか同じものを思い浮かべられないのです。
「ブラックホールがさ」
「え、何それ?」
「だから、ブラックホールがね」
「ブラックホール? 何のこと?」
「何でも吸い込んじゃうんだ」
「掃除機みたいなもの?」
という具合で、言葉はうまく伝わらないのです。
目の前に見える物質については、それでも割合うまく行きます。
言葉が通じない外国に行って苦労した人は分かるでしょう? イエス、ノー、オッケーくらいしか分からない。それでも、そこにあるものを指差せる場合だけ、なんとかカタコトで通じ合うのです。
「それそれ」
「ボアソン?」
「そう、ドリンク。オッケー?」
「ヴヴドレボアソン?」
「イエス、イエス」
「ダコール」
とかぜんぜん通じそうになくても、目の前に並べられている清涼飲料水は買えます。
閑話休題、さてここまでで、哲学はなぜ間違うのか、概論は終りにして各論に入りましょうか。おもしろくすると、話がますます、柔らかくなる? まあまあ。
最初のテーマにいきます。
言葉は錯覚からできている
人類が言葉のようなものをしゃべりはじめたころ、仲良く語り合う二人の未開人は気持ちのおもむくままに「あー」とか「おー」とか、適当な声を出していればお互いにうまく理解し合えたのでしょう。二人の脳の神経回路の活動は、相互に干渉し、共鳴し、同じような状態になって、ほぼ完全な相互理解ができていたはずです。二人は実質的にひとつの脳で動いているようになり、うまく共同作業ができたでしょう。
現代人が「あー」とか「おー」とか言うだけで共同作業ができるのは、赤ちゃんどうしが遊ぶときとか、大人どうしだと、セックスのときくらいでしょうか。それ以外のほとんどの場合、人間と人間はきちんと言葉を介さずに協力はできません。
しかし悲劇的なことに、言葉を使えば使うほど、人間どうしの相互理解はむずかしくなるようです。