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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

現代哲学は際限なく難解になっていく

2007年01月09日 | 2言葉は錯覚からできている

目で見れば分かる物質だけを扱う科学と違って目に見えない直感的な存在感の共有に依存せざるを得ない人文哲学は、どうしても直感に伴う曖昧さの侵入を防ぐことができません。そこに哲学者たちは論理の破綻を見てしまう。そこで再び混乱が始まる。対立する論敵を論破して学派の勢力を守るために、ますます特殊な言葉と特殊な論法を作って論争を発展させます。それらを統合するためにさらに新しい言葉と論法を作り出し、哲学を立て直そうとする議論も表れます。そうして際限なく現代哲学難解になっていく、という悪循環が始まったのです。

ちなみに直感的な存在感を極力排除する方向に全力を傾けた哲学の一派は、形式論理の研究に徹底し、数理論理学や現代数学の基礎論になっていき、それはそれで成功しました。間違わない哲学を作ることに成功したのです。たしかに、数理論理学や数学は矛盾のない形式的な体系を作ることには成功しましたが、その分ふつうの人々の悩みからは遠く離れてしまいました。「円周率は存在するか?」という問題に日夜悩まされている人は少ないでしょう。

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言語学的転回―哲学の再構築と再破綻

2007年01月08日 | 2言葉は錯覚からできている

Hatena17 十九世紀から二十世紀にかけて、このような自然科学と人文哲学の乖離に苦しんだ新世代の哲学者たちは、その原因を既存の哲学が使う言葉のあいまいさにあると気がつきました。そこで彼らは、伝統的な哲学の言葉を否定し、数学や科学のように厳密で限定された特殊な言葉遣いを作って哲学を再構築しようとしました(言語学的転回などという)。

これらの仕事は、今まで使われたことのないまったく新しい概念を作ることで、日常的な言葉にまとわり付いている宗教や古い社会体制の権威をも振り払っていく効果がありました。そのために当時の西洋文明の知識人たちに歓迎され、文学芸術啓蒙教育、社会批判、イデオロギー、政治運動、などにひろく応用されました。

この面では新しい哲学は成功しました。西洋諸国の知識人の間の教養として定着し、神学に取って代わってアカデミーにおける最高の学問としての地位を獲得したのです。しかし一方で、この新しい哲学運動は、西洋哲学をますます悲劇的な袋小路に追い込んでしまいました。

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科学の成功と哲学の破綻

2007年01月07日 | 2言葉は錯覚からできている

西洋の哲学者たちは、物質世界を理論化していく自然科学の目覚しい成功に感銘を受けました。そしてその成功が、次には、旧来の神学や哲学に破綻をもたらしていく可能性に気づきました。もともと論理をつめていくルネッサンス以来の西洋文明の哲学が科学の成功をもたらしたのに、そのおかげで今度は、(自然)科学以外の哲学の領域(仮に人文哲学、と言うことにしましょう)が科学と矛盾していくことがはっきり見えるようになってしまったのです。

「科学万歳」、「科学万能」と叫びたくなります。しかしそれでは何も考えていない理系バカみたいに見える恐れがあるので、「人類の科学依存が過ぎるのはいかがなものか」とか、「科学の限界を知らない人類の傲慢は自然の神秘に報復されるだろう」とか言っておくほうが利口に見えるという気がします。しかし筆者がバカに見えるか利口に見えるかにかかわりなく、何と言おうと、科学の進歩には実際かなわない、いずれ科学の一人勝ちは抑え切れない、という気がします。

科学は、自然現象を原子エネルギーに還元して数値で表わしてしまいます。このコーヒーカップもこのパソコンも、この机も、私の人体も脳も思考も、人情でさえも、時間と空間に分布する数値の羅列で説明しきってしまいそうです。科学の見方では、この世は力学の方程式で表わされる四次元時間空間(時空という)の上のベクトル関数でしかないようです。これら数値の羅列で表わされる物質とエネルギーがどう組み合わさると、人文哲学が思考の対象としている「存在」とか「意識」とか「自我」とか「正義」とかができてくるのか。さっぱり分かりませんね。科学者は答えてくれません。どちらかというと、哲学者がこれに答えるべきだ、と人々は思っています。

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科学は力なりscientia potentia est

2007年01月06日 | 2言葉は錯覚からできている

Hatena16

ルネッサンス以降、西洋文明の人々は、物質ではない概念を扱う哲学を発展させると同時に、物質を表わす言葉をも磨き上げました。自然哲学と称して物質についての観察、実験、記録、を重ね、物質世界の法則を明らかにしていったのです。近代科学の開祖といわれる自然哲学者が、今から四百年以上も前に語った「科学[知識]は力である(スキエンティア ポテンティア エスト{ラテン語} 一五九七年 フランシス・ベーコン『聖なる瞑想 異端の論について』)」という言葉は、現代の科学の発展を正しく言い当てたといえます。

彼らの後継者たちによる自然の観察と実験、それにもとづいた仮説検証から帰納的に築き上げられた研究成果は近代物理学、近代化学や進化論、工学などを生み、すばらしい自然科学を築き上げました。それらは産業革命を実現し、さらに十九世紀から現在にかけてますます発展し、ほぼ完璧に物質世界を説明し、もうすこしで世界を征服できそうな完全性にまで近づいています。

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戦争の原因は哲学?

2007年01月05日 | 2言葉は錯覚からできている

実際、世界中でそういう錯覚に基づいた理論、哲学、思想、信仰、文化、文明がいくつも作られて、権威をもって人々に共有されています。それらは互いに境界を接し越境して競合し、人間の集団の間の反目と対立を増幅していきました。暴力や戦争、粛清魔女狩りがそうして発生したのです。

物質を指す言葉のほうは、こういう事態を避けることができました。

科学の理論の違いで学者たちが対立することはあっても、殺し合いはしませんね。

戦争というものが起こる原因を武器や兵器に利用される科学が犯人であるかのように言う人がいますが、間違いだと思います。暴力や戦争を起こす原因は、物質を表わす言葉を扱う科学よりも、物質を表さない言葉を扱う哲学に近いほうから流れて来るのではないでしょうか。確かに科学は物質についての人間の力を強大にしましたが、それを何に使うか、それを決めるのは物質を表わさない言葉で語られる哲学のほうです。科学は、いわば盲目的に、人間の力を強めていく。それは、物質を表わす言葉を磨き上げて、物質世界の法則を極めていけば必ずそうなるのです。

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