ところが、古来の哲学の対象である精神的な概念、「命、心、欲望、存在、言葉の意味、自分・・・」というようなものは、人体の運動を客観的に観察しても、なかなか厳密には捉えられません。コンピュータに入力できるようなデータになりませんね。こういう主観的、情緒的、あるいは文学部的なものを科学としてどう考えたらよいか。自然科学に組み入れることはできないのだろうか?
この問題は、現代哲学では、心の哲学(philosophy of mind)として研究対象になっています。欲望というような心的な概念で表わされる心的現象と身体の運動との因果関係は、どう考えるべきか。心的現象が脳の運動神経を起動するのか? そうではなくて観察する人間がそう思い込んでいるだけなのか? 現代哲学でも、うまい説明はできていません。現代哲学の傾向としては、だんだんと主観的な心的現象(欲望、信念、意識など)を、懐疑的にみるようになってきているようです。主観的にしか捉えられない心の現象は、脳神経科学の記述で置き換えられはずだ(一九六〇年 W・V・O・クワイン『言葉と対象』)とか、いやそうではない、とかの議論が盛んになっています。