認知心理学などの用語としての錯覚より、かなり広い概念になります。言葉の意味を広げすぎているという批判を覚悟でこうしたわけは、人間どうしが目や耳の感覚器官で直接に間違いなく経験を共有できる物質現象と、それ以外とを、できるだけはっきりと分けるためです。間違いなく経験を共有できる物質現象とそれ以外とは、かなりはっきり分けられますが、物質現象ではない物事どうしは、曖昧さが連続していてどこかで切り分けることは難しいのです。つまり、狭い意味の錯覚(枯れススキを幽霊と錯覚など)と拙稿が使う広い意味の錯覚(心の存在など)とが連続していることを強調したいわけです。
拙稿の用語法によれば、日常生活で私たちが使っている一般的な言葉のほとんどは錯覚に基づいて使われていることになります。物質を指差さずに言う抽象名詞(三角形、愛、私、美、正義・・・)や集合名詞(社会、家族、会社、国家、人類・・・)、動詞(ある、する、なる、好く、嫌う、したがる・・・)、価値や感情に関する形容詞(正しい、怖い、いやらしい・・・)などは、ほとんど全部、錯覚から作られていることになります。これらの言葉はどれも、物質を指す言葉に比べると、曖昧で何を指しているか、それなのかそれでないのか、どちらとも言えるような分かりにくいところがあります。私たちは、幼児の頃からこういう言葉を使っているので、どういう場面でこれらの言葉が使われるかよく知っていますが、さて改めてその意味は、と聞かれるとちょっと自信がなくなるところがありませんか? これらの言葉がはっきりと実体を持っている、と思うのは錯覚なのです。
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