拙稿の言葉遣いでは、「この世はすべて錯覚、夢幻のごとくなり(荘子哲学?)」とまではいきませんが、私たちの感情を揺さぶる、私たちが毎日そのために生きていると思っている物質ではない大事な物事たちはすべて錯覚、となるわけです。
人生は錯覚、幸不幸も錯覚、生死も錯覚です。お金も錯覚、会社も錯覚、お偉方の威厳も錯覚ですね。まあ、そんなことを書いている筆者自身の心も錯覚、この拙稿の中身も錯覚、ということです。言葉遣いを少しずらしただけで、ずいぶんとニヒルな感じになります。まあ、ここは(荘子哲学というよりも)現代科学の底にある虚無のようなものが表れているともいえる。なぜそうなるのか、それで大丈夫なのか、ということについては、だんだんと詳しく話しましょう。
なお、ここで簡単に述べた錯覚と世界の認識という問題は、西洋哲学では、主観と客観という観点から、古来の存在論、認識論から始まって近代の観念論、唯物論、現象学から現代哲学にいたるまで哲学のメインテーマの一つとして議論されています。これらの伝統的哲学と拙稿とは、先に述べたように方法論が違うのでかみ合う関係ではありませんが、互いの位置づけを比較して分析する議論を展開しようとすればできないことはありません。しかしながらそうすることは、いわゆる哲学用語をちりばめた文章を書くことになり拙稿の趣旨にそぐわないので、あえて展開しません。
ちなみに物質と錯覚の存在感に関して、筆者の言葉遣いとは少し違いますが、昔の日本人は言葉を言い分けていたようです。たとえば、物質や人間のように存在感がはっきりしている対象を「もの(物,者)」と言い、筆者のいう脳内だけの錯覚のように存在感が物質的にはっきりしない対象を「もののけ(物の気)」と言ったようです。昔の人が言った「き、け(気)」とかは、空気とか息(生き)の「き」ですね。「気持ち」とか「気を失う」とか「気が付く」、「気が狂う」の「き」、眠気や色気の「け」とかいう言葉から推測すると、心や意識に当たるものを特に「気」と言ったようです。英語のアニマルとかアニミズム(霊魂信仰)とか日本語(?)のアニメとかの語源になっているラテン語のアニマは、空気、息、魂、生命という意味です。アニマルというのは息をしている「息物、生き物」のことだったようですね。日本語の「気」にぴったり対応していておもしろい。
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