ここで注意しなければならないことは、私たちが現実をこのように感じ取る身体を持っているということから、この現実世界は実在する、という結論は導けません。この現実世界が実在するという前提からは私たちが現実をこのように感じ取るはずだ、という結論は導けますが、その逆は必ずしも成り立たない。
実際、私たちが知り得る限界は、私たちが現実をこのように感じ取る身体を持っているということだけですから、残念ながらこの世界が実在するかどうかは証明できません。
ここで注意しなければならないことは、私たちが現実をこのように感じ取る身体を持っているということから、この現実世界は実在する、という結論は導けません。この現実世界が実在するという前提からは私たちが現実をこのように感じ取るはずだ、という結論は導けますが、その逆は必ずしも成り立たない。
実際、私たちが知り得る限界は、私たちが現実をこのように感じ取る身体を持っているということだけですから、残念ながらこの世界が実在するかどうかは証明できません。
そういう身体を持つことが人類の生活にとって実用的だったからです。そういう理由でこの現実は現実である。私たち人間が協力するためにはこの現実を共有する必要がある。協力して言語を通じさせるためにはこの現実を共有する必要がある。そうであるならば、言葉を話す限り、言語の実用性のためには、この現実は限りなく絶対的な存在とならざるを得ない(拙稿24章「世界の構造と起源」 )。
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私たちはこの現実を共有する。私たちだれもが、この現実が現実だ、とはっきり分かる。それは私たちの身体が、この現実を強い現実感を持って感じ取るからです。そしてこの現実は当然、だれもが同じように感じ取っているはずだ、と確信しています。私たちの身体はそう感じ取るように作られています。現実がこのように感じ取れることは、あまりにも当然であるので、私たちは意識しませんが、あらためて考えてみれば人間の身体がそのようになっている、ということが分かります。
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実際、このような考えが当然として人々の会話、マスコミ表現、教育、宗教などが行われています。しかし(拙稿の見解によれば)この自分だけの内面という現代人に顕著な考え方からは現代のニヒリズムやエゴイズムや自己疎外など自分を絶対視する世界観ないし人生観が必然的に芽生えてきます。現実世界の冷然とした客観性が確立された現代では、これら内面にこだわる個々人の生き方が社会の基盤をむしばむ要因のひとつとなっています。
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さてここから、ちょっと困った問題が起きます。私たちが自分というものを考える場合、現実の客観性を絶対視すると自分の内面というものがそれに対峙するものであるかのように感じられてくることです。
たとえば、この世界と私の内面とは別のものだという考え(拙稿23章「人類最大の謎」 )などがここからでてきます。客観的に存在するこの現実世界とは別に自分の内部には自分だけが知っている内面がある、という考え方です。
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