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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

私は物質ではない

2008年02月04日 | x5死はなぜあるのか

物質世界の話に限れば、人間の死といっても、アイスクリームが溶けるというような物質変化に比べて、特に変わったことではない。そうだとすれば、そこからは、自分が死ぬことを他の人が死ぬことに比べて特に怖がる理由は導けない。さらにいえば、私が死ぬことが、私のテーブルの上にあるこのアイスクリームが溶けることに比べて、どちらが重大なことだ、ということはできないわけです。それが恐怖だと感じる感情は、幼児の頃から周りの人々の態度を見て直感的に学習した結果、身についた錯覚の働きです。幼児体験による恐怖の刷り込み、トラウマ(心的外傷)、の一種といってよいでしょう。

残る問題は、私というものをどう思うか、でしょう。私にとって私というものの存在感はどういうものなのか? それは物質だけの話ではすまない。物質だけの話なら死の恐怖は錯覚の刷り込みというだけです。しかし、私にとっての私というものの存在感は、どうも物質としての私の人体の存在感とは違うものらしい。そうだとすると、そのふたつの存在感の関係はどうなっているのか?そこをよく調べる必要がありそうです。

さて、私の身体とまったく同一の(分子構造の)人体がもうひとつ、そこにあるとしたら、私にとって、その人体の存在感は私が私と思っているこちらの人体の存在感と同じものなのか? どうも、そうではないような気がしますね。私がその人体(人体Aあるいは人体B)を詳しくながめても、それが私だという感じはしないでしょうね。確かにそっくりだけれども、私はこっちにあるから、そっちは私ではない、と思うはずです。だって、私が今見える景色はこちらの人体の目玉の位置からカメラで写した画像と同じになっていて、そちらの人体の目玉の位置から写した景色ではない。それに、こちらの人体をつねると痛いけれども、そちらの人体をつねっても痛くない。こちらの人体の右手を挙げようとすれば挙がるけれども、そちらの人体の右手を挙げようと思ってもできない。

そういうことから、物質としては私の身体そのものである人体A(あるいは人体B)には、私が私だと感じている私の存在感はない。つまり、私が私だと感じている私の存在感は物質としての私の身体にあるのではない、ということです。

拝読サイト:トラウマになる?

拝読サイト:HONDA ASIMOYouTube動画

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人体Aと名づけた物質

2008年02月03日 | x5死はなぜあるのか

Poussin_syrinx さてここに、私の身体とまったく同じ人体が二つできました。この人体Aと名づけた物質と人体Bと名づけた物質とは、まったく同じ分子構造を持った物質です。物質としては私の身体そのものです。どう見ても区別がつかない。解剖しても、顕微鏡で見ても、X線CTで測定しても、サインさせてみたり、暗証番号やパスワードをパソコンに打ち込ませたり、結婚記念日や妻の好物を言わせたり高校の校歌を歌わせてみても、その他どんな実験観察をしても、身体の分子一個一個が全部同じわけですから、どう調べても私の身体と違いはない。しかしそれで、私が私と思っている私は、そこにありますか?

人体Aの中に私はあるのでしょうか? 物質としては、それは私そのものです。私以外のだれもが、人体Aを私と思って、まったく問題はありませんね。人体Bについても同じことです。だれもがそれを私だと思って何の違和感もなく、つきあうことができる。人体B自身も、それで問題は感じないでしょう。ただ、もともとの私と人体Aだけが、それは私ではない、と言うでしょうが、そんなことは他の人にとっては問題になりません。人体Aに向かって私の借金を返してくれと言ってもよいし、人体Bに向かってそう言ってもよいのです。誠実な私としてはちゃんと返済するでしょう。人体Aも、人体Bも、私の誠実さをそのまま持っているので、ちゃんと借金は返す。そうなれば、貸した人としては二倍になって戻ってくるわけです。それでよいのでしょうか?

どうも、違うような気がするでしょう? それは私ではなーい!と叫びたくなりますね。私はまだ私の借金を返していない。もう返済済みですと言われても、返さないと気がすまない。私以外のだれもが、もう済んだといっても私にはまだ済んでいない。人体Aも人体Bも私ではない。私が私と思っている私はそこにはない。他人が私だと思っている人体があるだけです。

それは借金の記憶からアイスクリームの嗜好まで私そっくりかもしれない。しかし、それは私にとっては私の外側にある一個の物質でしかない。それは一個の人体というだけに過ぎないのですから、ふつうの物質です。それが壊れること、つまり私そっくりの人体Aや人体Bの死は、他の人間の死と比べて、物質現象としては特別に区別することはできない。

拝読サイト:オレオレ

拝読サイト:恋をしたぁ

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原子操作顕微鏡による人体の製造

2008年02月02日 | x5死はなぜあるのか

さて、私たちが感じる自分という存在感は、拙稿が繰り返し述べるように、実は、この世には存在しないものの錯覚です。だれの目にも見えるこの客観的な物質世界の中をいくら調べても、自分が感じるような自分というものはない。探しても見つからないものだから、自分探しなどという言葉が作られる。それはこの世のどこかには、けっして見つかるものではありません。この世には、他人が私と思っている私の身体があるだけで、私が私と思っている私というものはない。もともと物質世界にはない自分というものは、死んだからなくなるというものではありません。

(ここで私という一人称を使って言い換えれば)この物質世界の内部には私というものはありません。ちょっと実験してそのことを確かめてみましょう。まず、高性能の大型コンピュータを用意します。超高性能の高透過原子間力顕微鏡(今はそういうものはありませんが、将来開発されると仮定)を使って、私の脳細胞の分子構造をひとつひとつ読み出して、それをコンピュータにインストールしていく。そうすれば、私の脳のあらゆる情報はそのコンピュータの中にすっかり入ってしまう。この炭素の隣に窒素がくっついていてそれに水素がくっついている、というような立体的な分子構造のデータを全部コンピュータにインプットするわけです。かなり手間はかかりそうですが、がんばって作業を続ければ、同じように身体全体の分子構造データも全部コンピュータの中に入ってしまいます。そのコンピュータのデータから、科学の原理としては(将来開発されるはずの超高性能原子操作顕微鏡を使って)、いつでも、いくつでも私とまったく同じ脳、同じ人体を作ることができる。まあ、そういう私と同一の人体を、ここに作ったとしましょう。それを人体Aとする。ついでに同じようにもうひとつ作って、こちらは人体Bとする。

拝読サイト:一番「真っ黒」な物質=米チーム開発、ギネスに申請

拝読サイト: 生物と無生物のあいだ、そして。。。

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神秘感のあやしい仕掛け

2008年02月01日 | x5死はなぜあるのか

Poussin_sleepingvenus さて、死に関する神秘という問題について、拙稿の考え方で進めるとすると、まず私たちが自分というものをどう感じているか、という話からはじまる。当たり前のことですが、私たちはだれもが、自分というものについて、それがこの現実の客観的物質世界の内部に存在する、と思い込んでいます。このことは、当たり前すぎて、いつもは意識されない。

私たちが朝、目を開けると、日が射し込んでいて部屋が明るくなっている。窓を開けると空は晴れ上がっている。いい天気だ。気持ちがいい。気持ちがいいと感じているのは私だ。それが自分だと言うことは当たり前すぎて、いつもは感じていない。それでも外へ出て、近所の奥さんと「おはようございます」と挨拶を交わすとき、自分の動作がちょっと気になったりする。こういうことも当たり前すぎるから、それがどういうことか、などと私たちが思うことはありません。

こういうことは、わざわざ言うまでもない常識です。この常識の上に私たちは毎日を暮らしている。ところが、自分の死について考える場合、この常識が揺らいできます。この客観的物質世界は永久に存在するのに、そこで私だけがいなくなってしまう。私だけがいないこの世界が続いていく。朝が来れば、近所の奥さんは「おはようございます」と、だれかと挨拶を交わすに違いないけれども、そこに私はいない。どこにも私はいない。そういうことを想像すると、身体が宙に浮いてしまうような不思議な感じと同時に底知れない不安を感じる。神秘感をともなった恐怖を感じるわけです。

ここでふつう私たちは素直に恐怖を感じていやな気分になるわけですが、今回はそれをやめて、わざといつもより疑い深くなることにしましょう。そして、この神秘感はあやしいのではないか、と疑ってみましょう。神秘感と恐怖に取り込まれる前に、落ち着いて目を凝らして見ると、お化け屋敷の暗闇にある仕掛けが見えてくるかもしれませんよ。

拝読サイト:いい天気(^O^)

拝読サイト:冬眠?

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神秘感→思考停止

2008年01月31日 | x5死はなぜあるのか

確かに私たちは、自分の身体というものがなくなる、ということに恐怖を伴った強い神秘感を感じます。自分がなくなったら自分が感じていることはどうなるのか。今大事にしている人や物たちをどうにもできなくなる。それらがどうなってしまうのか、まったく分からなくなる。毎日の生活の土台になっている自分というものの存在感が揺らぐ。いつも頼りにしている自分の現実感がぐらぐらになってしまいますね。そういうことが不安あるいは恐怖を伴って強い神秘感を引き起こす。人間は、未知の不可解なものに対して神秘感を持つようにできている。そのような私たち人間にとって、自分の死は、最大の神秘感をもたらすものです。

しかし(拙稿の見解では)神秘感というものは、たいてい、あやしいところがある。実生活に役に立つ効果も持っているが、一方ではいかがわしい効果も持っている。神秘感は、もともと、考えても分からないものについて人間の思考を停止させ、そういうものは警戒して近づかないようにする仕組みです。脳のこの仕組みは、危険を回避し、同時に無駄な悩みを保留にして毎日の実際的な問題に取り組ませるという有益な効果を持っている。その効果が人間の生存に有益だったから人類に備わった感覚です。しかし、人間は神秘的なものについて語り合うこともする。そうするうちに変な結論に導かれてしまうことがあります。仲間がみんな同じ神秘感を共有する場合が一番あぶない。そういうときにつくられる結論は間違いが多いのですね。そうだとすれば、もしかすると、今話題にしている死に関する神秘感も、あやしいものかもしれない。私たちを間違った結論に導いているかもしれない。まあ、ここでは、そう疑って、話を進めてみましょう。

拝読サイト:カツ丼

拝読サイト:裁判員制度考

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