物質世界の話に限れば、人間の死といっても、アイスクリームが溶けるというような物質変化に比べて、特に変わったことではない。そうだとすれば、そこからは、自分が死ぬことを他の人が死ぬことに比べて特に怖がる理由は導けない。さらにいえば、私が死ぬことが、私のテーブルの上にあるこのアイスクリームが溶けることに比べて、どちらが重大なことだ、ということはできないわけです。それが恐怖だと感じる感情は、幼児の頃から周りの人々の態度を見て直感的に学習した結果、身についた錯覚の働きです。幼児体験による恐怖の刷り込み、トラウマ(心的外傷)、の一種といってよいでしょう。
残る問題は、私というものをどう思うか、でしょう。私にとって私というものの存在感はどういうものなのか? それは物質だけの話ではすまない。物質だけの話なら死の恐怖は錯覚の刷り込みというだけです。しかし、私にとっての私というものの存在感は、どうも物質としての私の人体の存在感とは違うものらしい。そうだとすると、そのふたつの存在感の関係はどうなっているのか?そこをよく調べる必要がありそうです。
さて、私の身体とまったく同一の(分子構造の)人体がもうひとつ、そこにあるとしたら、私にとって、その人体の存在感は私が私と思っているこちらの人体の存在感と同じものなのか? どうも、そうではないような気がしますね。私がその人体(人体Aあるいは人体B)を詳しくながめても、それが私だという感じはしないでしょうね。確かにそっくりだけれども、私はこっちにあるから、そっちは私ではない、と思うはずです。だって、私が今見える景色はこちらの人体の目玉の位置からカメラで写した画像と同じになっていて、そちらの人体の目玉の位置から写した景色ではない。それに、こちらの人体をつねると痛いけれども、そちらの人体をつねっても痛くない。こちらの人体の右手を挙げようとすれば挙がるけれども、そちらの人体の右手を挙げようと思ってもできない。
そういうことから、物質としては私の身体そのものである人体A(あるいは人体B)には、私が私だと感じている私の存在感はない。つまり、私が私だと感じている私の存在感は物質としての私の身体にあるのではない、ということです。
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