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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

ウェークアップ問題

2008年02月09日 | x5死はなぜあるのか

Poussinrapeof_sabinewomen 今、私の目の前に明日の私の人体があって、それをつねったら痛みを感じるならば、それは私だと思えるでしょう。しかし、今は明日の私がいないのですから、それは不可能です。そうすると、明日の私とは何なのかは、さっぱり分からない、と言うしかない。今ここにはいない明日の私を想像するということは、いったいどういうことなのか?

だいたい、こういう疑問は疑問として存在できるのか? こういう疑問はどういう意味になるのか。明日の私という観念は存在しないものの観念なのではないか?こういうことは、直感ではなんとなく分かるような気もするが、よく考えるとさっぱり分からない。質問者は何を問題にしているのでしょうか? と問い返したくなりますね。こういう話は、聞いているうちにだんだん、ばからしくなってくる。明日の私は、明日の私なのだから明日になってから考えればよい。今日からそんなことに悩んでいると日が暮れてしまうよ。と思うほうがまともそうですね。

しかし明日の予定では、私は銀座のレストランで友人たちと昼食を食べることになっています。そこへ私と人体Aと人体Bが全部現れたらどうなるのか? ちょっと心配でこのまま眠る気がしない。夜眠っているうちに、二人を消滅させて、明日は一人だけが目覚めるような仕掛けをしておくことにしましょう。三個の人体はまったく同一のものですから、残すのはどれでもよいでしょう。では人体Bだけを明日残すことにしたらどうですか? 今の私の身体と人体A、の二体は眠っているうちに抹消しておきましょうね。明日には、人体Bだけが銀座のレストランに出かけていけば、昼食会は問題なく進むでしょう。その後の私の家族との生活も、他の人たちとの予定も計画も行動もその結果も、人体Bがあれば、何の問題もなく進行するはずです。そういうことならば、いまの私としても、何も心配することはない。安心して今夜は眠れる。明日以降の世界では、どれが私か、などという問題はまったくなくなります。明日は、今の私が想像するように、私は銀座で友人たちと楽しく会食して、昨日から今日が楽しみだったが夜はよく眠れた、という話をするに違いない。それで何か、問題はありますか?

問題があると思う人は、これをウェークアップ問題と名づけて、哲学として研究してください。筆者は、まったく問題ないと思っているので、名前は付けません。

拝読サイト:『潜水服は蝶の夢を見る』

拝読サイト: TOEIC25035歳☆猿でもできる!英国留学 | 20080205

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自己同一性?

2008年02月08日 | x5死はなぜあるのか

私が感じる私の存在感は、私にしか感じられない。今の私にしか感じられない。そしてそれは言葉で言うことができない。それが私たち人間の身体の仕組みです。

この問題は、明日の私の存在感は、私にとって、どんなものになるか、という予想にも関係している。今晩ぐっすり眠ってしまうと明日目を覚ましたときの私は、今の私とどういう関係になっているのか? 明日の私は今の私をはっきり覚えているはずですが、今の私は明日の私をはっきり想像することができない。明日になれば、それは今の私ではなくなって、明日の私になっているはずだから今は分からないのだ、ということでしょう。しかしこの私が、今の私ではなくなってしまって、今は感じられない明日の私になるとはどういうことか? 

その明日の私というのは、私の身体とまったく同一の分子構造の人体、たとえば先の実験で作った私の二体のコピー(人体Aと人体B)、が明日になったらなるものとどう違うのか? 少なくとも私以外の人は、夜じゅう寝ないで見張っていない限り、明日になったとき、この私の身体と人体Aと人体Bの区別はつきませんね。他の人にしてみれば、どれが私でもまったく同じことです。私と人体Aと人体Bの三人だけが、互いに「あいつら二人は私じゃない!」と叫んでいるだけです。

私は、過去の私が今のこの私だということを確信している。しかし、たとえば人体Aに言わせると、彼も今の自分が過去の自分と同じものだと確信している、というわけです。彼は、どうも本気でそう思っているとしかみえない。それどころか、人体Aは、「私がコピーだなんて冗談じゃない。私が本物の私で、君がコピーの人体なのだ!」と言い出す。人体Bも同じことを言うわけです。えっ、そうなのかも、とうっかり思ってしまうほうが負け、ということになります。

そうだとすると、明日の人体Aと明日の人体Bと明日の私は同じものなのか? 同じでないとしたら、どうして見分けられるのか? 

拝読サイト:自己同一性への執着

拝読サイト: 追い込み

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脳内の聞き手は抹殺不可能

2008年02月07日 | x5死はなぜあるのか

Poussinneptun この状況は、実際に聞き手になって見れば、すぐ分かります。たとえば、言葉で「私は私だ」と言われても、何を言われているのか分からない。話し手は、聞き手が分かるものと確信して、言葉を発している。聞き手としては、話し手が、相手に伝わることを確信して何かを言おうとしていることは分かる。しかし、「私は私だ」と言われても、何を言いたいのか分からない。話し手の気持ちが分からない。聞き手である私は、話し手のあなたではないから、あなたの言っている私ではない。だから、聞き手である私がここにいる限り、話し手であるあなたは私ではなくて、こちら側の私が私だ。つまり、話し手であるあなたが聞き手である私に話しかけている限り、あなたを見ていても、私がこの私と感じられるような私としての存在感は、あなたの姿の中には感じられない。

次に、話し手と聞き手の二人とも、一人の人間の内部に入ってしまうことを考えます。私たちがふつうに一人で考えている場合は、そういうことです。一人自分の部屋で文章を書いているときもそうでしょう。このような場面でも、状況は、二人の会話の場合と同じことになる。言葉を使って考える以上、一人で考えても、脳内には聞き手が浮かんでいる。言葉を使う限り、私たちは、自分の内部にいるその聞き手に聞こえるように言葉を発する事で、言葉を考えることしかできない。それ以外の言葉の使い方はない。そうだとすると、他人に分かるような言葉だけしか使えない会話の場合と同じように、やはり言葉の限界に突き当たる。つまり、私だけが感じる感覚は、孤独な思索の場合であろうとも、言葉で表現することはできない。

言葉を使う限り、聞き手の存在を抹殺して話し手一人だけの世界を作ることはできないのです。

拝読サイト:そうだった.ことばってのは<shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"></shapetype> <stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas></formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock><shape id="_x0000_i1025" alt="Comments" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 12pt; HEIGHT: 12pt"></shape><imagedata o:href="http://s.hatena.ne.jp/images/comment_br.gif" src="file:///C:DOCUME~1ADMINI~1LOCALS~1Tempmsohtml11clip_image001.gif"></imagedata>

拝読サイト:some

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トリッキーな存在感

2008年02月06日 | x5死はなぜあるのか

閑話休題、この世における自分自身の存在感というトリッキーな感覚を、どう捉えるか?

言葉で「私は・・・」と話し始めたとき、私たちは、実は、すでに聞き手に回っている。自分が発した言葉の聞き手に成り代わって、後に続く言葉を捜し始めるわけです。声に出して話す場合ばかりでなく、声に出さずに言葉を思い浮かべるとき、あるいは文字に書くとき、パソコンや携帯電話で文字入力するとき、私たちは、はじめから自分が発する言葉の聞き手であり読み手であるわけです。言葉つなぎ遊びのように、話し手と聞き手が交代しながら言葉をつないでいく。その話し手と聞き手の両方を自分一人でやっているのですね。

(拙稿の見解では)「私は・・・」で始まる言葉を、私たちが考えるとき、たった一人で孤独に思索しているつもりであっても、私たちの脳内の状態としては、話し手、聞き手その他大勢、の仲間集団が共感しあいながら、私に関する話題について話し合いを進めている場合と同じことになる。大勢で言葉つなぎ遊びをしているわけです。そうして、私の言葉ができて、それを独り言のように聞きながら私は自分がそれを考えていた、と思う。実際にはまわりに自分以外の人間がいないとしても、脳内では無意識のうちに、仲間の人間のイメージが動き回っていて、その集団運動に共鳴して言葉が形成されてくる。人間が言葉を使うときは、いつもこの仕組みが働く。

そうだとすれば、人間どうしが共感できないような感覚については言葉で表現することはできない。つまり、私だけが感じる微妙な痛みだとか、私が私だと思っている私の存在感などは、言葉で言い表すことは不可能なのです。「私は・・・」と話し出した瞬間、自分が聞き手に回るとすると、聞き手として共感できない感覚については言葉が続かない。「私は」の次につながる言葉は、だれもが感じられることでなくてはならない。言語のそういう仕掛けから、私にしか感じられないことは言葉では言えない。

拝読サイト:アクィナス・キャプチャーは最高のライフハックかもしれない

拝読サイト:普段どれだけ脳内で一人会話繰り広げてるのか

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人間特有の偽装システム

2008年02月05日 | x5死はなぜあるのか

Poussin_venusaeneas こんなことは、まったく当たり前のことではないか? 私は私一人しかいない、という当たり前の感覚を確認するだけだ、という読者は多いでしょう。けれども、筆者に言わせれば、ここに哲学の(さらにあえて言えば人間のすべての認識における)根本的な混乱が潜んでいる。「私はなぜあるのか」という問題(拙稿12章〔カテゴリー12既出〕のテーマ)は、なまじまじめに考えると人生の落とし穴になります。こういう場面、つまり私たちが言葉を使って、私というものの主観性と客観性を同時に表現しようとする場合があぶない。こういう言葉は、日常の言語表現であるにもかかわらず、超えてはならない言語の限界を安易に超えてしまうために、話し手をも聞き手をも混乱させる。その場合、困ったことには、話し手も聞き手も自分たちの話が混乱していることに気づかない。もし何かおかしいと気づいたとしても、それが言語の限界の問題だと気づくことは、まずありません。

この問題は、人間が使っている言語の限界の問題です。日本語ではだめだけれども英語なら大丈夫、という問題でもない。もっと深刻な、人類共通の問題です。つまり人間の脳の言語形成機構がどう作られているか、という問題になっている。それは個々の脳システムの問題であると同時に、集団として言語システムを機能させる個体間の相互作用のシステム的な問題でもある。

人間は自分が考えたことを言葉にしてしゃべる、と私たちは単純に思い込んでいますが、(拙稿の見解では)それは錯覚です。人間は、無意識に、仲間の動作と共鳴することで脳内に運動信号を発生し、無意識のうちにそれが言葉を形成する。(拙稿の仮説では)その言葉を一度運動信号として脳外に出して、言語中枢であらためて(自分の発言あるいは独り言として)聞きなおすことで、自発的に考えたと思い込む仕組みになっている。この脳機構の具体的な解明は、近い将来の科学にとって最大の課題となると予想されます。しかし、現代の科学ではこのテーマは、プロの研究者の研究対象になっていません。脳神経科学と言語学、言語心理学の研究者たちはこの問題を自分たちの研究領域の範囲内に抱えていることは自覚しているようですが、具体的な切り口が見つからないために、実際の研究現場では敬遠されています。こういう状況を批判する論者もいますが、拙稿は科学者の社会構造を論評することには興味がないので、それにはくみしません。

さてそれより、ここから先は別の論点で話を進めることにしましょう。いずれにせよ、ものごとの根っこのさらに奥の作りに興味がある拙稿としては、どうも研究対象としては不毛といわれてプロの学者には敬遠されている領域の話を蒸し返すようになってしまいます。しかしまあ筆者としては、言い古された話はさけながらも方向は根っこを目指し、かつなるべく将来、研究が進みそうな方向の問題を取り上げていこうと思っています(言語の根底についての議論は一章を設けて後述する予定)。

拝読サイト:私が何になろうとも私は私でしかなくて作品の中に私はいる

拝読サイト:研究者の活躍できる領域とは

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