今、私の目の前に明日の私の人体があって、それをつねったら痛みを感じるならば、それは私だと思えるでしょう。しかし、今は明日の私がいないのですから、それは不可能です。そうすると、明日の私とは何なのかは、さっぱり分からない、と言うしかない。今ここにはいない明日の私を想像するということは、いったいどういうことなのか?
だいたい、こういう疑問は疑問として存在できるのか? こういう疑問はどういう意味になるのか。明日の私という観念は存在しないものの観念なのではないか?こういうことは、直感ではなんとなく分かるような気もするが、よく考えるとさっぱり分からない。質問者は何を問題にしているのでしょうか? と問い返したくなりますね。こういう話は、聞いているうちにだんだん、ばからしくなってくる。明日の私は、明日の私なのだから明日になってから考えればよい。今日からそんなことに悩んでいると日が暮れてしまうよ。と思うほうがまともそうですね。
しかし明日の予定では、私は銀座のレストランで友人たちと昼食を食べることになっています。そこへ私と人体Aと人体Bが全部現れたらどうなるのか? ちょっと心配でこのまま眠る気がしない。夜眠っているうちに、二人を消滅させて、明日は一人だけが目覚めるような仕掛けをしておくことにしましょう。三個の人体はまったく同一のものですから、残すのはどれでもよいでしょう。では人体Bだけを明日残すことにしたらどうですか? 今の私の身体と人体A、の二体は眠っているうちに抹消しておきましょうね。明日には、人体Bだけが銀座のレストランに出かけていけば、昼食会は問題なく進むでしょう。その後の私の家族との生活も、他の人たちとの予定も計画も行動もその結果も、人体Bがあれば、何の問題もなく進行するはずです。そういうことならば、いまの私としても、何も心配することはない。安心して今夜は眠れる。明日以降の世界では、どれが私か、などという問題はまったくなくなります。明日は、今の私が想像するように、私は銀座で友人たちと楽しく会食して、昨日から今日が楽しみだったが夜はよく眠れた、という話をするに違いない。それで何か、問題はありますか?
問題があると思う人は、これをウェークアップ問題と名づけて、哲学として研究してください。筆者は、まったく問題ないと思っているので、名前は付けません。
拝読サイト:『潜水服は蝶の夢を見る』