goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

空っぽの偽問題

2008年02月14日 | x5死はなぜあるのか

脳の憑依機構は、私たちが他人を見ると無意識のうちに他人に乗り移ってその気持ちを読み取る自動的な神経活動です。私たちは、意識的には、この憑依機構のアウトプットだけを感じ取るので、人間を見ると、その身体の中にその人の心(あるいは魂)のようなものが入っている、と感じる(拙稿8章「心はなぜあるのか?」参照)。そこから、私というもの(あるいは私の魂)が、私の身体から抜け出して、別の身体に乗り移れるはずだ、と思い込むようになる。

人間の身体と心。またそこから派生する、自分の身体と自分自身との関係。物質である身体とは別に心がある、という思い。これらは憑依機構が作り出す錯覚にもとづいている想像の産物です。これらに関する疑問は、いわゆる心身問題(心身二元論、心脳問題)という哲学的な問題だとされていますが、哲学者がこういう問題をいくらまじめに考えても、実は錯覚のまわりをぐるぐるまわるだけになる。錯覚で作られた言葉に引きずられてできてくる偽の問題です。つまり、こういうことを疑問に思うことは間違いなわけです。

メメント・モリ(自分が死ぬことを想像しろ)という教えは、こういう意味不明なことを命じている。困った教えです。この教えをまじめに受け取ってしまうために、毎日、世界中で何千、何万の有為な青少年が人生を誤っていく。胸が痛みます。生死の謎だとか、自我の存在の重さだとか、自分探しだとか、こういうものに人間の身体は強い神秘感を感じるようにできている。それは確かです。しかしだからと言って、こういうものが人生で一番重要なものだと思うことは間違いです。これらは中身がない空っぽの偽問題です。こういうことを重要だと思うと、この現実世界の捉え方に関して大事なところで根本的に間違っていくのです。

拝読サイト:メメント・モリ 

拝読サイト:独我論からの反論について

コメント

だれも分かっていない

2008年02月13日 | x5死はなぜあるのか

Poussin__flora つまり、いずれにせよ、私以外の人にとって、私が死ぬということはどういうことなのかはよく分かる。他人から見れば、私が死ぬということは、私の身体が骸骨になるということだ、とはっきりしている。しかし、私自身にとって、私が死ぬということはどういうことなのか? さっぱり分らない。分かるはずがないのです。こういうことは、言葉をつかって他人に説明することができない。他人が言葉で受けとって分からないことは、実は、自分でも言葉の意味が分からないのです。そもそもこういう疑問はどういう疑問なのか? こういう疑問を思いつくこと自体、おかしいのではないか? それこそがもっと大事な疑問なのではないか、と思いたくなります。

あえて答えれば、(拙稿の見解では)このような疑問は意味がないのです。実際、「私は死んだらどうなるのでしょうか?」と聞かれても、どんな答えを期待されているのか分からないでしょう? だから、さっぱりイメージが浮かばないのです。私が人体Aとして明日目覚めること、私がチンパンジーになってしまうこと、私が骸骨になってしまうこと、これらはみんな、私というものが私の身体という物質に入っていると思う錯覚からきている。私というものが、私の身体から抜け出して、別の身体に乗り移れるはずだ、と思うところからきている。それは脳の憑依機構が作る錯覚からくる想像です。この想像は、錯覚と自覚できない暗黙の錯覚からきている。この錯覚が多くの人に共有されているので、人と話しあうことで、なんとなく分かり合えるような気になる。けれども、よく考えれば、実は、だれも何も分かっていないことが分かるわけです。

拝読サイト:『ロス:タイム:ライフ』 3 

拝読サイト:【ベロニカは死ぬことにした】

コメント

死んだらどうなるか問題

2008年02月12日 | x5死はなぜあるのか

他人が骸骨になることは想像できるけれども、自分が骸骨になることは全然想像できない。骸骨になったときに、身体のどこがどう動くのか、どう動かないのか、寒いとか熱いとか感じるのか、とても感じるわけはないと思うけれども、何かを感じるのか。そういうことがさっぱり分からないからです。いい加減に想像すれば、なにか気味の悪いイメージのようなものが浮かんだりするけれども、実は、まじめに考えるほど、さっぱり分かりませんね。無理やり想像しても、その自分のイメージは、他人が想像するだろうと想像できる自分のことでしかない。それは、自分とはいっても身体が自分にそっくりなだけの他人ですね。人体Aや人体Bがどうなるかを想像することと変わらない。それでは、私がどうなるのか、どんなことを感じるようになるのか、という疑問の答えにはなっていない。

「私は死んだらどうなるのでしょうか?」と聞かれて、「間違いなく骸骨になるでしょう」と答えても変な顔をされるだけでしょう。質問者は、そういうことを答えてほしくて聞いたわけではないのですから。

拝読サイト:エンゼルメイク

拝読サイト:エコな旅立ち

コメント

骸骨パラドックス

2008年02月11日 | x5死はなぜあるのか

Poussinsolomon こういう疑問は、疑問に思うことが間違いなのではないか? こういう疑問は、直感では、なんとなく意味が分かるような気がする。実際、私たちは、毎日、こういうような会話をして話が通じていますね。しかし、そういうところに根本的な間違いが潜んでいるのではないでしょうか?

この問題は、この世における自分自身の存在感のパラドックスです。今の私が、今の私ではないものに乗移ったらどうなってしまうのか? ちょっと考えてみると、すごくむずかしい謎のように思えます。しかし、(拙稿の見解によれば)これは実は、言葉の使い方を間違えるために起こる混乱の問題です。話し手が「私がチンパンジーになったら」というとき、聞き手はどう受け取るでしょうか?たぶん、話し手の顔をまじまじと見ながら、「この人が今急に毛むくじゃらになって、足が手のような形になって、ウッキッキとかしか言わなくなったら、私はどう感じるのかなあ? この人の心も消えてしまって、自分が人間だったことも全然覚えていないだろうから、会話もできないだろうな」と思うでしょう。しかし、そこで聞き手が想像しているのは、単に一匹のチンパンジーの姿であって、実は今ここにいる人間である話し手とは何の関係もないものになっている。

私たちが独り言で「私がチンパンジーになったら」とつぶやくときも、まったく同じことです。独り言であろうとも、心の中で発するだけの言葉であろうとも、それが言葉である以上、(先に述べた理由で)言葉というものは他人である聞き手が感じること以外の意味はない。「私がチンパンジーになったら」という言葉は、『今の私』と『一匹のチンパンジー』という互いに無関係なふたつのものを無理やり並べてつくったものです。そういう言葉は、意味不明なのです。

私が死んで死体になっているとはどういうことか? 葬儀場で死体の私が棺おけに入れられていて、皆さんがこちらを向いて焼香してくれるということは、どういうことなのか? 私が骸骨になっていて、先祖代々のお墓の中に納まっているということは、どういうことなのか? 想像できない。「お墓の中に入ったら、さびしいでしょうね」と言われても、「さあ、どうなんでしょう、私は死んで入ったことがないもので分りません。生きて入っていればさびしい、と言うか、石の下だからハサミムシなんかいそうだし、真っ暗で怖いと思うでしょうが、骸骨になって入っている気分はどうなのでしょうか。何も感じるわけないと思うし、全然分りません」というのが正直な答えでしょう。

拝読サイト:私が死んだ時は、ダンボールの棺おけでOK

拝読サイト:私のお墓の前で泣かないでください

コメント

コウモリに乗り移る

2008年02月10日 | x5死はなぜあるのか

こういう問題は、裏返せば、今、私がチンパンジーになってしまったら、どう感じるか、という問題にも似ている。私がチンパンジーである、とはどういうことか? ふつう、ちゃんとした答えはできないでしょう(現代哲学としてこのテーマでの古典的な著作は、  一九七四年 トマス・ネーゲルコウモリであるとはどういうことか』既出)。まじめに考えるほどまともな答えはできないことが分かる。私の身体が手むくじゃらで、足が手のようになっているチンパンジーの身体になっていて、脳もチンパンジーの脳であるならば、チンパンジーであるとはどういうことか、私にはよく分かるでしょう。しかし実際には、私はチンパンジーの身体を持っていないので、この質問の答えになる状況をうまく想像できないのです。

私たちは、私たちが生きているこの世界の中に自分の身体があって、その身体の中に自分が入っている、と思い込んでいます。そうすると、別の身体に乗り移ってしまうことが想像できる。近所の奥さんの身体に乗り移る。チンパンジーに乗り移る。コウモリに乗り移る。明日の自分の身体に乗り移る。来年の自分に乗り移る。そうすると、どうなるのか? 実は、私たちは毎日、いつも、こういうような乗り移りを想像しながら人と話したり、一人で考えたりしているのです。

明日の自分に乗り移ることを想像するから、明日の計画が立つ。来年の自分を想像するから、今日も勉強するわけです。死んで家のお墓に入ることを想像すると、今度のお彼岸には、お墓の掃除をしておこうかな、という気にもなります。

しかし、今ここにはない身体に乗り移った私というのは、どんな私なのか? 来年の私の腕を挙げたら、どんな具合にその腕が上がっていくのか分からない。その身体をつねって痛さを確かめることもできない。そんなことで、来年の私に、ちゃんと乗り移れるのでしょうか?

拝読サイト:物々交換と所有権の進化学:チンパンジーの行動から文明を考える

拝読サイト:コウモリ

コメント