脳の憑依機構は、私たちが他人を見ると無意識のうちに他人に乗り移ってその気持ちを読み取る自動的な神経活動です。私たちは、意識的には、この憑依機構のアウトプットだけを感じ取るので、人間を見ると、その身体の中にその人の心(あるいは魂)のようなものが入っている、と感じる(拙稿8章「心はなぜあるのか?」参照)。そこから、私というもの(あるいは私の魂)が、私の身体から抜け出して、別の身体に乗り移れるはずだ、と思い込むようになる。
人間の身体と心。またそこから派生する、自分の身体と自分自身との関係。物質である身体とは別に心がある、という思い。これらは憑依機構が作り出す錯覚にもとづいている想像の産物です。これらに関する疑問は、いわゆる心身問題(心身二元論、心脳問題)という哲学的な問題だとされていますが、哲学者がこういう問題をいくらまじめに考えても、実は錯覚のまわりをぐるぐるまわるだけになる。錯覚で作られた言葉に引きずられてできてくる偽の問題です。つまり、こういうことを疑問に思うことは間違いなわけです。
メメント・モリ(自分が死ぬことを想像しろ)という教えは、こういう意味不明なことを命じている。困った教えです。この教えをまじめに受け取ってしまうために、毎日、世界中で何千、何万の有為な青少年が人生を誤っていく。胸が痛みます。生死の謎だとか、自我の存在の重さだとか、自分探しだとか、こういうものに人間の身体は強い神秘感を感じるようにできている。それは確かです。しかしだからと言って、こういうものが人生で一番重要なものだと思うことは間違いです。これらは中身がない空っぽの偽問題です。こういうことを重要だと思うと、この現実世界の捉え方に関して大事なところで根本的に間違っていくのです。
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拝読サイト:独我論からの反論について