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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

人間界共通の経済原則

2008年02月19日 | x5死はなぜあるのか

Poussin_orion ちなみに、このことわざ(地獄の沙汰も金次第)は、なかなか含蓄にとんだ言葉で、筆者は、近代日本文明の偉大な哲学のひとつ、と高く評価しています。この言葉が印象深い理由は、いくつかありますが、まず地獄といわれるわけの分からない世界での、エイリアンのような閻魔とか鬼とかの不気味な謎の(中国の不思議な役人のような)存在が相手である会話であっても、言葉が通じる限りは人間界共通の経済原則が通じるはずだ、という強烈な信念。そのポジティブな世界観に伴うネガティブな人生観、つまり、人生でまじめに努力して何をなそうと、金があってそれを簡単に金で買ってしまう人にはかなわない、という暗いニヒリズム。そして同時にそのニヒリズムへの嫌悪感がある。嫌悪を感じるけれども、その現実に目をそむけて逃げる人は敗北する。自分がそれ、というのはいやだ。そういう現代人のアンビバレンスをうまくあらわしている。嫌いだけれども、しかたなく認めてそれに追従しなければならないのが現実、という人生の捉え方を教える。またさらには、市場主義経済の自律性のメリットと腐敗のリスクを教える。そして最後に、そんな現実社会のアイロニーを教える。実に教育的なことわざですね。

しかれども、愛は金で買えない(一九六四年 ポール・マッカートニー『キャント・バイ・ミー・ラブ』)。若者はいつも、そう叫ぶ。それもりっぱな真実。逆に言えば、それ以外のたいていの幸福は金で買える。だから、愛のためには金が必要だ。現代人はそう思っているわけです。

拝読サイト:「世界で唯一、カネだけが無色透明で、フェアな基準」考

拝読サイト:格差問題はどう考えればよいのか

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経済価値⇔身体⇔幸福感

2008年02月18日 | x5死はなぜあるのか

三途の川には死人の服を剥ぎ取る鬼のようなお婆さん(彼女は閻魔大王の奥さんであるという説もある)がいて、どんなに立派なものを身に着けていてもだれもが素っ裸にされてしまうそうです。つまり、人生ゲームで努力してどんな得点を手にいれようとも、死ぬ瞬間にそれらはすべて剥ぎ取られてしまうのです。この世で幸せに暮らしていて、いろいろたくさんのものを持っている人ほど、それがいやで、死にたくない、と思うわけでしょう。

しかし、ある言い伝えによると、そのお婆さんに賄賂として六文銭を渡せば大丈夫、という逃げ道があるそうです。人間いつ死ぬか分からない。私たちはいつも財布に六文銭を携えている必要があります。地獄の沙汰も金次第、と言うことわざもある。何が何でも金を貯めておけばよい、金持ちになるほうが勝ち、という思想ですね。この思想の信奉者は、けっこう多い。それを実行しているかどうかは別として、現代日本人はほとんどの人が、実はこれこそ人生の現実をあらわしている、と思っているでしょう。けれども、しらけるからあえて言わない、というところがある。金権というか、強い経済力、これもまた、たしかに人間の幸福感の一面をよくあらわしている。財産あるいは社会的地位というゲームの得点が、人間にとって身体で感じる幸福感にしっかり対応していることは間違いない(幸福については拙稿次章および次々章で論じる予定)。

拝読サイト:地獄八景亡者戯

拝読サイト:六文銭 

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すべての人生は敗北

2008年02月17日 | x5死はなぜあるのか

Poussin_david 私たちは毎日忙しい。忙しい理由はいろいろあるが、一言でいえば、まもなく今日が終わって明日が来てしまうからです。明日の人生に備えて今日のうちに、いろいろな活動をしなければなりません。

その明日がなければ、忙しがる必要はなくなる。それは喜ばしいことではないのか? いや、どうもそうではなさそうです。自分が死ぬことを喜ぶ人はいない。私たちはふつう、死にたくないと思っている。少なくとも今日は死にたくない。このままでは死にたくない。もうしばらくは生きて、もう少しは幸せになりたいのです。

私たちが「明日になれば今日よりも自分は幸せになる」と期待できるときだけ幸せ、と感じるというならば、明日がないということはそれだけで不幸ということです。人生のゲームオーバーです。人生のゲームオーバーは、そのまま敗北ということになります。「死によって、すべての人生は敗北に終わる」という名言がありますが、そのとおりですね。人生ゲームでの目標が自分ひとりだけの幸福であれば、プレイヤーは、だれもが、死によって今までの得点をすべて失い、完全な敗北の状態で終わる以外ありえません。

拝読サイト:人生の敗北者

拝読サイト:常変 明日がないから、今日が見えるんだよ。

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世界には終りがない

2008年02月16日 | x5死はなぜあるのか

人生という観点から見ると、死はその(少なくとも自分にとっては重要な)物語の終止符です。しかし、そうは言っても、終止符はただの記号であって、非常に重要な記号だということにはならない。その記号は、終わりという意味以外の意味はありません。

その終わりという意味からして、よく考えてみると、実は頼りないものです。それほど深い意味があるともいえない。そもそもこの自然の物質世界には、終わりというものはない。私たちがある物事を眺めていて、熱心にそれを注目することをやめたくなる時点を、終わりと言っている。もともと終りは自然にあるものではなくて、人間が作るものです。人間が語るものには必ず終わりがある。文には必ずピリオドがある。音楽には終止符があり、ゲームやドラマもエンディングマークが出る。終わりは、はっきりしています(「終わらない物語」という題の幻想小説がありますが、それは終わらない物語についての終わる物語のようです)。しかしゲームが終わってもドラマが終わっても、その後も、現実の物質世界は連続的に変化していく。それなのに人間は、人生には始めがあり終わりがある、と思う。それは、人間が物事をそう捉えている、ということでしょう。

人間が、毎日の自分の活動を、人生というゲームの一場面だと思っているから、それには終りがある。自然現象だと思っていれば、終わりはない。世界には終りがない。物質が物質の法則にしたがって変化していくだけです。すべては宇宙とともに始まり、宇宙がなくなるまで続くわけですね。

拝読サイト:世界の終り (最終回)

拝読サイト:人生ゲーム

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錯覚の上に作られた現実

2008年02月15日 | x5死はなぜあるのか

Poussin_bacchanal 筆者ですか? 筆者も物心ついた小学生のころ、大人の話に影響されたり、怖いマンガを読んだりして死の恐怖をしっかり学習しました。この歳になっても、自分の人生がここで終りと思うのはいい気持ちはしませんね、そのときがいつ来るとしても、ちょっと待ってくれとか思うだろう、という気がします。

最近、癌の疑いあり、と医師の説明を受けたときはがっくりきて、くらくらっとめまいがしました。ずっと年金を払い続けたのにぜんぜん取り戻せないのか、くやしい、生命保険をもっとかけておけばよかった、などとくよくよ思ったりしました。いつもは健康のためと節約のためをかねて駅から家まで歩いて帰るのに、その日は気が変わってタクシーに乗ってしまいました。

いくらそれが錯覚と知っていても、立体映画の画面から槍が飛んでくると、思わず身をすくめるでしょう? それがあたりまえです。進化によって作られた私たちの身体はそうなっているのですから、当然です。それでよいのです。こういう錯覚の上に作られた現実が、私たちなのですから。

拝読サイト:人間必ずしも一度は感じる「死」の恐怖。

拝読サイト:前立腺がんの疑い

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