(拙稿の見解では)私たち人間にとって、自分の死は何の神秘もなく、何の意味もありません。ゲームのプレイヤーにとって、自分のプレイとは何の関係もない、たとえば雷雨によってゲームが突然打ち切られる、というだけのことです。ゲームというものは、もともとそういうものなのです。バーチャルの世界でゲームは永久に続けられることになっている。しかし、ゲームというものは、どれもが、リアルな物質でできた構造の中に作りこまれたバーチャルなソフトです。たとえば、(コンピュータ内蔵)ゲーム機という物質の中にテレビゲームは作りこまれている。きれいに刈り込まれた芝生のゴルフ場の中にゴルフというゲームは作られているのです。
そのゲームが埋めこまれている物質世界の法則によって、たとえばコンピュータの故障によって、あるいは雷雨によって、ゲームは突然打ち切られる。そのことはプレイヤーがどうプレイしたかとは関係がない。まして何を思ったか、とは関係がない。ゲームが中断されることは、ゲームの中身とは何の関係もないのです。
ゲームの内部から見ると何の意味もないことが突然起こる、ということです。自分が思っている人生にとって、自分の死は何の意味もない。人が死ぬということは、物質現象としては、階段で転ぶというような、単なる偶然の小さな事故が起こることでしかない(先日、地下鉄の階段で転落して失神した人が救急隊に運ばれていくのを見ました。若い人のようでしたが、助かったかどうか分かりません)。人生というバーチャルなゲームが埋めこまれているハードウェアである物質の小さな故障で、ゲーム全体が突然崩壊する、というだけです。システム全体の崩壊というものは、いつでも、そうして起こるのです。
その人本人にとって、死といわれているものに、それ以上の深い意味はありません。自分以外の人にとってだけ、それは意味がある。自分ひとりの幸福のためだけにゲームをしていたのなら、それで一切はおしまい。それが不幸だと思うなら、人生は不幸で終わるしかない。
拝読サイト:PSP三度の故障で再起不能
拝読サイト:人とのつながり。