goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

ゲームが埋めこまれているハード

2008年02月24日 | x5死はなぜあるのか

(拙稿の見解では)私たち人間にとって、自分の死は何の神秘もなく、何の意味もありません。ゲームのプレイヤーにとって、自分のプレイとは何の関係もない、たとえば雷雨によってゲームが突然打ち切られる、というだけのことです。ゲームというものは、もともとそういうものなのです。バーチャルの世界でゲームは永久に続けられることになっている。しかし、ゲームというものは、どれもが、リアルな物質でできた構造の中に作りこまれたバーチャルなソフトです。たとえば、(コンピュータ内蔵)ゲーム機という物質の中にテレビゲームは作りこまれている。きれいに刈り込まれた芝生のゴルフ場の中にゴルフというゲームは作られているのです。

そのゲームが埋めこまれている物質世界の法則によって、たとえばコンピュータの故障によって、あるいは雷雨によって、ゲームは突然打ち切られる。そのことはプレイヤーがどうプレイしたかとは関係がない。まして何を思ったか、とは関係がない。ゲームが中断されることは、ゲームの中身とは何の関係もないのです。

ゲームの内部から見ると何の意味もないことが突然起こる、ということです。自分が思っている人生にとって、自分の死は何の意味もない。人が死ぬということは、物質現象としては、階段で転ぶというような、単なる偶然の小さな事故が起こることでしかない(先日、地下鉄の階段で転落して失神した人が救急隊に運ばれていくのを見ました。若い人のようでしたが、助かったかどうか分かりません)。人生というバーチャルなゲームが埋めこまれているハードウェアである物質の小さな故障で、ゲーム全体が突然崩壊する、というだけです。システム全体の崩壊というものは、いつでも、そうして起こるのです。

その人本人にとって、死といわれているものに、それ以上の深い意味はありません。自分以外の人にとってだけ、それは意味がある。自分ひとりの幸福のためだけにゲームをしていたのなら、それで一切はおしまい。それが不幸だと思うなら、人生は不幸で終わるしかない。

拝読サイト:PSP三度の故障で再起不能

拝読サイト:人とのつながり。

コメント

バーチャルである現実世界

2008年02月23日 | x5死はなぜあるのか

Poussin_poet 閑話休題、死の話に戻る。人類は、遅くとも言語を使うようになって以来、バーチャルな世界に生きている。私たちは、バーチャルなそのゲームの中で得点を獲得して幸福になる以外に、幸福になることはできない。そう進化した脳を、私たちは持っている。この脳を持ったおかげで人類は大繁栄し、地球生態系の覇者になった。同時に、このような身体の仕組みのために、人間は自分の死を受け入れることができない。人類は、動物の中で唯一、自分の死を恐れる。人類の脳がそう進化した結果です。

科学が対象とするリアルな物質世界ではなく、人々の間の共感とそれにもとづくバーチャルな人間のイメージ。言葉。それらの錯覚にもとづいて現れる心の動き。それらを感じ取ることで構成される人生ゲームの中に生きる。私たちは、自分という存在感を頼りに、バーチャルな情報からリアリティを感じ取って現実感のある世界を作り出す。それが、私たち人間にとっての現実です。それに夢中になって毎日を生きる。バーチャルであるリアル、つまりリアルなバーチャル、に私たちは埋没している。

そのようにバーチャルに生きる身体を持った人類が、そうでない人類よりも、リアルなこの物質世界で実務能力を獲得し、経済的生産性の高い安定した社会をつくり、自然の中を生き残った。おかげで、その子孫である私たちが、この地球表面というリアルな物質世界を支配するようになったわけです。

拝読サイト:バーチャル

拝読サイト:SLの友達   [たつるの家]   

コメント

バーチャル→理論化→科学

2008年02月22日 | x5死はなぜあるのか

さらに言葉の正確さにこだわると、人間が現実だと思っているバーチャルリアリティが模擬しているリアリティなるものはいったい何か、が疑問になる。ふつうに考えると、それは科学が対象とする物質世界、ということになる。しかし、科学は人間が感じることから作られている(拙稿14章「それでも科学は存在するのか?」)。科学によって作られることで、物質世界は存在することになる(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」)。

つまり人類はもともとバーチャルリアリティの世界に生きていて、そのバーチャルを理論化することで科学を作り出し物質世界を明らかにした。その結果、私たち現代人は物質世界をリアルと思うようになったわけです。私たちは、いわば無意識のうちに、身体が感じ取るバーチャルなデータから存在感を作り出してリアルと思い、その中で生きている。まあ、ふつうの言葉使いで言うバーチャルは、そのリアルからさらにまた人工的に作られたものですね。いやどうも、ややこしい言いまわしになって、すみません。

拝読サイト:理想論(終わりは始まり)

拝読サイト:リアルとバーチャル

コメント

コピーのコピーはコピー?

2008年02月21日 | x5死はなぜあるのか

Poussin_parnassus ところで、バーチャルとか人生ゲームとかいう言葉を拙稿は好んで使う。もちろんテレビゲームからの連想で思いついた言葉使いですが、ちょっと誤解を招く言葉でもあるので、少し説明を加えさせて下さい。拙稿は、オンラインのバーチャル世界ゲーム、つまりインターネットでつないだコンピュータシミュレーションによるバーチャルリアリティの中に参加者が自分の分身(アバター)を作って操作するゲームなどが大流行しているから私たちはバーチャルな人生をおくるようになる、ということを言いたいのではありません。

そうではなくて、むしろ逆のことを言いたいわけです。つまり、もともと人間という動物の身体が脳内にバーチャルリアリティを作り出しそれを現実と思って反応する機構になっている。こういう人間の身体の仕組みを、ここではバーチャルな人生ゲームといっているわけです。したがって、言い方がややこしくなりますが、私たちが現実と思っているこの世界は一種のバーチャルリアリティで、その人間がバーチャルだと思っているテレビゲームは、人間が現実と思っているバーチャルリアリティをバーチャルに模擬したものということになる。英語のバーチャルの語源は、実質的に同じ、という意味です。その意味でいうと、実質的に同じものに対して実質的に同じになるように作ったものは実質的に同じものである、ということですね。コピーのコピーはコピーだ、ということです。

拝読サイト:WSSCCの公共広告は正直スゲェと思う

拝読サイト:バーチャルワールド「Second Life」にロールス・ロイス発見!

コメント

人生の現実⇔脳内の錯覚

2008年02月20日 | x5死はなぜあるのか

閑話休題、さて拙稿の見解では、経済価値も社会的価値も物質としては実体がない脳内の錯覚です。しかし私たちは、その錯覚を、はっきりした感情を伴ってしっかり感じる。お金が増えればうれしい。出世すれば幸福。それは、私たちの身体が、それらを感じることで現実世界を生き抜いていくような仕組みになっている、ということです。つまり人間の身体が、その錯覚を手に入れるために夢中になるように、進化の結果、作りこまれていることは、錯覚ではなく現実です。ここが大事なところです。人間の脳には、人生ゲームの得点として獲得できる経済的価値などを感情回路に入力する神経結線が、進化と学習によってしっかり作りこまれている。その獲得得点である価値、つまり幸せ、を全部剥ぎ取られるのはつらい。嫌でたまらない。想像するとぞっとする。どんなことをしてでも三途の川に近づくのは避けたい、と思う。それが、人体の正しい反応なのです。

物質世界の法則から見れば、死は何の意味もない。けれども、人間は客観的物質世界に生きるというよりも、人生ゲームの中のバーチャルな存在感の世界に生きるような身体に作られている。私たち人間が生きる世界は、客観的な物質世界ではなく、むしろ脳内の錯覚で作られたバーチャルな人生ゲームの中だ、といえる。

拝読サイト:Xing World

拝読サイト:スキンの色が決まらない・・・

コメント