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対話のない社会

 『対話のレッスン』より

 「日本人の新しい対話の形をさぐる」と大見得を切って始めた連載も三年目に入り、いよいよ二一世紀も間近(二〇〇一年が二一世紀の始まりとする説が有力だが、二〇〇〇年ともなれば、やはり気分は二一世紀である)に迫ってきた。ここら辺で話を整理しておこう。
 連載第一回に、私はまずもって、対話と会話を区別して考えなければならないと書いた。「会話」とは、お互いの事情をよく知った者同士の気軽で気楽なお喋り。「対話」とは、お互いのことをあまりよく知らない者同士が、「知らない」ということを前提として行う意識的なコミュニケーション。とまあ、こんなふうに定義をしてきたわけだが、ここでちょっと、難しい問題に出会ってしまった。
 私はいま、三省堂の中学二年生向けの国語教科書に、「対話を考える」という書き下ろし原稿を書いている。教科書というのは、できあがるまでにたいへん時間がかかるものらしく、一度教科書見本を作って、現場の教師の反応を見てまた作り替え、さらに文部省の検定を受け、またまた現場の教師に採択のための検討をしてもらうということになっている。
 さて、そこでも私は、会話と対話の違いについて中学生向けの文章を書いたのだが、これがどうも中学生には判りにくいのではないかという意見が出てきた。これまでの通念では、会話というのは「ただ喋ること」、対話というのは「一対一で喋ること」といった程度の認識だったようだ。
 おそらくこれは、「会話」「対話」という漢字の字面から来る印象が強いためもあるのではないだろうか。会話というのは、なんだかこう、輪になって喋る感じ。対話は、面と向かってしっかりと喋る感じ。また、「対話」は「会話」に含まれるという印象を持っている人も多いようだ。
 これはもう、まさに言葉の問題だから、いかようにも定義付けはできるだろう。私は私でその定義付けをはっきりさせようと試みているのだが、ひとつだけはっきりと言えることは、「会話」と「対話」の語源になっている「Conversation」と「Dialogue」に関しては明確な違いがあり、決して「Dialogue」が「Conversation」に含まれることはないだろうという点だ。
 そこでもう一度、「対話」についてのきちんとした定義をしておこうと思うのだが、この点に関しては、私がくどくど説明するよりも、『〈対話〉のない社会--思いやりと優しさが圧殺するもの』(中島義道著・PHP新書)という素晴らしい本が出版されている。
 この本のなかで中島氏は、対話の基本原理を一二ヵ条にわたって書かれている。それをそのまま載せると、ほとんど引用の範囲を超えてしまうので、ここでは本連載に特に関係のある箇所だけを抜き出して考えてみる。興味のある方は、ぜひ書店にてお買い求めいただきたい。
 まず氏のあげる第一の原理は、対話は「あくまでも一対一の関係である」という点である。これは、先に掲げた「対話というのは、単に一対一で喋ることではない」という私の説明と矛盾するようにも見えるので、若干の解説が必要だろう。
 中島氏が書いているのは、コ対一の関係」ということである。実際に対話が行われる場での人数は、二人でも一〇人でも構わない。ただ、「談話」や「教授」と違って、一方的な「一対多」の関係にならないこと。また、そこに参加する人々が、一人ひとり、たしかな価値観や人生観を持って、そのコミュニケーションに参加していることが重要になる。「対話」の典型的な形であるプラトンの著作などでも、ソクラテスはたいていの場合、複数の弟子たちと問答を交わしている。しかしソクラテスは決して、一方的に弟子たちに知識を伝えたり(談話)、教えたり(教授)、説得したり(討論)しているわけではない。あくまでお互いの価値観をぶつけ合うなかで、普遍の高みへと昇ろうとしているのだ。
 他にも中島氏は、対話の基本的な原理として、次のような点をあげている。
  ・自分の人生の実感や体験を消去してではなく、むしろそれらを引きずって語り、聞き、判断すること。
  ・相手との対立を見ないようにする、あるいは避けようとする態度を捨て、むしろ相手との対立を積極的に見つけてゆこうとすること。
  ・相手と見解が同じか違うかという二分法を避け、相手との些細な「違い」を大切にし、それを「発展」させること。
  ・自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対して、つねに開かれてあること。
 「会話」が、お互いの細かい事情や来歴を知った者同士のさらなる合意形成に重きを置くのに対して、「対話」は、異なる価値観のすり合わせ、差異から出発するコミュニケーションの往復に重点を置く。
 対話は、単に自分を他人に紹介することではない。対話は初対面の人間とのみ行われるものでもない。ごく親しい人との間でも、異なる価値観のすり合わせが必要となる場合には、対話的なコミュニケーションが要求される。
 かつてこの連載のなかでも、演劇、ドラマは対話から始まると書いた。その恰好の例は『忠臣蔵』だ。『忠臣蔵』の四十七士たちは、江戸と赤穂に勤務地が分かれていたとはいえ、基本的には勝手知ったる間柄である。ところが、これが血気盛んな若い殿様の前後見境ない行動のために、お家断絶という大きな運命に直面する。
 その日まで、すなわち江戸からの早駕寵が到着する日まで、赤穂の武士たちは、おそらく日がな一日、藩の雑務を円滑に進めるための合意形成を目的とした「会話」だけを繰り返していたはずなのだ。ところが、彼らは、思っても見なかった大きな運命に直面し、初めて個々人の価値観、世界観(ここでは、藩や忠義に対する考え方や、個々人の身の処し方)の相違を認識する。
 おそらく彼らは、それぞれが、隣にいる人間が、こうも自分と違う考え方をしていたのかと驚いたことだろう。この驚き、戸惑いが疑心暗鬼を呼び、忠義と裏切りの物語を生み出して、『忠臣蔵』を不朽の名作としているのだ。
 価値観の差異に気がついた義士たちは、生まれて初めて「対話」を始める。自分の経験と未来を賭けて意見を表明し、(江戸時代の封建社会のなかであるから、限られた範囲であろうが、身分を超えた発言もし)また他人の意見に耳を傾け、そして最終的な結論を出し行動する。『忠臣蔵』が現在も上演可能で、様々なバリエーションを生んできたのは、こういった「対話」の構造を内包しているからである。
 さらに「対話」を考えるうえで重要なことは、「ディべート」「討論」との差異だろう。ディべートは、自分の価値観を主張し、その価値観と論理によって相手が説得されることが最終的な目的となる。だが、対話は、中島氏も指摘している通り、自分の価値観と、相手の価値観をすり合わせることによって、新しい第三の価値観とでもいうべきものを創り上げることを目標としている。だから、対話においては、自分の価値観が変わっていくことを潔しとし、さらにはその変化に喜びさえも見いだせなければならない。相手の意見に合わせるのでもない。自分の意見を押し通すのでもない。新しい価値創造の形が、いま必要とされているのだ。
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