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第10章の前半は他者の世界への考察

環境社会を定期

 環境問題に対して、環境社会を提起する。第9章は簡単なロジックになっている。一つの仮説です。この仮説の色合いをもっと、深めないと、第10章に持って行けない。

 人間は自分の欲望とか家庭とかの小さな単位、というよりも、各点だけで生活してきた。それらが集合になってくると、大きな問題になってくる。その問題は拡がる一方である。

 もっと大きな観点から見ましょう。元々の現象は多様化すると同時にグローバル化する。それに対して、数学的な解を求めるのが第9章です。

環境問題を考える人

 人口問題にしても個人的な問題ですよね。子どもを産むか生まないか、育てるか育てないか。その子がまた、個人的問題でどうするのか。それらを社会的問題として扱っていく。

 ほとんど、そのような大きな視点から見ることはしていない。内側から見てるのと外側から見るのでは大きく違う。

 環境問題を考える人間から見たら、あまりにも人々が自覚がない、覚醒していない、と言える。それを見ているNPOの連中も覚醒していない。自分の商売のためにやっている。もっと、キッチリした世界に持って行かないと彼らのわがままにつきあうとこになる。

 環境問題をやっている人間に対しての違和感が強いです。彼らにまともについて行こうという人間は少ないでしょう。問題はドンドン浸食されています。これは未来方程式で解ける問題です。

サファイアは方程式に対する解

 サファイアは方程式に対する解です。それは偶然見つかった解です。それが必然であることを示さないといけない。その部分の議論が第9章ではされていません。やはり、第10章とペアにしないと難しい。ついでに第10章を考えます。第10章は歴史が変わることの証明をめざします。

考える権利がある

 なぜ、一個人がそんなことを言えるをのか皆は考えるだろう。そんな権限はどこにあるんだ。神ではないのに。申し訳ないけど、神の立場です。あなたたちの世界を他者の世界、他者の歴史と見ています。

 大体、歴史を行なう人間は、同じような立場になるかもしれないが、そうではなく、もっと根本的な問題です。私は私の世界がある。それしかない。他者の世界は傍観しているだけです。それをあえて解釈します。

大いなる意思による私の世界

 私の世界はどうでもいい世界です。ここの生まれてきた理由を考えると、たんにそれだけではない。私の世界を作って、それで他者の世界を評価していく。同時にそれに対して、方向を与える。聞くか聞かないかはあなた方の問題です。

 それをするように誘導されてきた。図書館にしても、仕事にしても、家庭にしても大きな意思の元にある方向に向けられてきた。

第10章の前半は他者の世界への考察

 第10章の始まりは他者の世界にします。こんな多くの人間が居るけど、生かされていない。多くなればなるほど、自分たちの首を絞めるという、環境問題にはまり込んでいる。根本的に直す方法、方向をどうするのかは、多くの人が幸せになる方法を示します。

 これは第7章の生きていること、存在していること、生活していることが皆、異なるということを意識することが一番、重要である。

ヘーゲルの歴史哲学の範囲

 第10章の最初に「覚醒せよ!」。と言っても単純なことです。なぜ、生まれてきたのかを考えればすむ。生まれてきた理由に一番近いのは哲学です。そして、歴史です。それが合わさったのが、歴史哲学。ヘーゲルは色々調べて、アジア的な見方、西洋的な見方までは作ったけど、アラブ的な見方は行なっていない。

 国民国家までの歴史は分析したけど、共産主義とか新帝国主義が起こるまでになくなってしまった。世界大戦も日本の帝国主義も経験していない。それらから新しい歴史哲学を作り出す。

国民国家に対する多様化とグローバル化のインパクト

 ハイアラキーの元で国民国家を作った。それが多様化とグローバル化で方向を失った。自由は確保できたけど、平等は確保できていない。不平等が拡大している。新しい力が必要だ。

 平等と言った時に一律的なものではない。自分自身が参画できる平等のカタチ。そのためには。ハイアラキーではどうしてもうまくいかない部分がある。それを共産主義が証明した。

 上が考えて、下が従うというのはあまりにも非効率。下が考えて、上が承認する方がはるかに楽な世界です。

個人の覚醒は数学では達成済み

 個人の覚醒はどんなモノで、その社会はどういうカタチになればいいのかということで、数学理論を応用します。これは、トポロジーができた経過です。元々、座標系というハイアラキーの世界であったものが、各点から発想して、近傍をチェーンでつないでいくというトポロジーができた。あくまでも特異点解消のためです。

 与えられた空間は単純なものではなく、常に微分可能とは限らない。局所を見ると、次元は定まり、微分可能が保証される。それをつなげていって、それを空間とした方がはるかに自由度が高い。色々な空間を作ることで平等性が増す。この考え方を社会に適用したのが社会の位相化。

10.4「社会の位相化」

 10.4「社会の位相化」を10.6にしましょう。10.7と10.8は私の世界の物語だから、他者の世界の最後になります。他者の世界の解決策は社会の位相化にします。理論的部分は第9章で行ないます。

 その前に数学的な解釈と歴史の解釈を入れます。数学の解釈は極端なカタチになっています。トポロジーの概念を次に進めたらどうなるかという問題も合わせて解決させようとしています。

 位相空間そのものは点から全体を作るモノですが、それをもっと次に進めるとどうなるか。点と全体が一緒になる。

「存在と無」から始まり、「存在の無」で終わる

 この奇想天外な空間はあり得るか。実は最初の「存在と無」で行なっています。点があることと無いことが一緒の世界。心自体も中核の一点と無限大に散らばる無数な点が一緒にところにある。一緒というのが重要な概念になります。

 この感覚を持つことが人類には重要です。自分の問題として、全体を考えられる。全体から自分の存在を自分の中で解決する。解は割と近いところにあったんですね。未唯宇宙そのものを上から見たら、解ができてしまった。それぞれの単元で行なっているモノがつながってきてしまった。

 これらは厳密な関係でやるよりも曖昧なまま理解する。複雑性みたいなモノです。複雑なモノは複雑に、曖昧なモノは曖昧のままに理解する。そのための表現はどうするか。それは後で考えます。言葉にできるモノ、できないモノ。

10.7「全てを知る」

 最後の「私は私の世界」に向かいます。そのための10.7「全てを知る」。今の多読もそのためです。

 全てというのは難しい。ここに『哲学中辞典』があります。哲学に関することが書かれている。それを全て理解することは意味の無いことです。自分の見方を確認するのと拡げることで範囲を見定めます。範囲をしっかりさせないと、全ては成り立ちません。

 だけど、拡げること、既存のモノを改めていくのか。新たな核をどう作っていくのか。あくまでも、目的に為に全てを知る。目的は生まれてきた理由を知ること。

10.8「存在の無」

 最後は、「私は私の世界」であり、その次は「存在の無」です。他者の世界で中央と端を一緒にする。同じように、存在と無が同一になる世界、つまり、「存在の無」です。最初から、答はあったんです。自分が「存在と無」と感じた時から。

第10章のテーマ

 第10章まで推敲して、小さなところの表現に向かいましょう。やってきたことはまっとうだったんだ。第10章から第8章を見ると、一つの疑問が湧く。シェア社会が苦耐え出なくなった時にクルマ社会がどうなるのか。

 多くの人が幸せになるのが第10章のテーマです。それから見た、クルマ社会ではあまりにも車にとらわれている。移動することを中心にした方がいいのかな。
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