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アーレントとベンヤミン

『ヴァルター・ベンヤミン』より アーレントとベンヤミン
「ベンジ」。アーレントは十四歳年上のベンヤミンのことを、尊敬と親しみを込めてこう呼んでいた。例えば、一九三九年十月二十二日付の手紙は次のように始まる。「親愛なるベンジさん、お便りするのがようやく今日になってしまって恥ずかしく思います。大変なことがいろいろと続いていたものですから……」。
この手紙の宛て先は、フランスのヌヴェールに設けられていた「志願労働者キャンプ」である。ドイツとフランスの戦争がすでに始まっていたこのとき、ベンヤミンは「敵性外国人」としてこの収容所に抑留されていた。検閲に備えてフランス語で書かれた同じ手紙でアーレントは、文学者のポール・ヴァレリーに政府当局に訴えてもらってはどうかと提案して、ベンヤミンの解放の可能性を探っている。
アーレントとベンヤミンは、すでに一九二〇年代にベルリンで知り合っていたが、交友を深めたのは亡命先のパリにおいてである。彼女とその最初の夫ギュンター・アンダースは、ベンヤミンのアパルトマンをたびたび訪ねた。ちなみに哲学者で作家としても活動したアンダース〔本名はシュテルン〕は、ベンヤミンの父方の伯母フリーデリケ・ヨゼフィの娘クララの息子で、ベンヤミンの従甥に当たる。
アーレントはこの頃、ロマン主義の時代にベルリンでサロンを開き、知識人を結びつけるのに重要な役割を果たしたユダヤ人女性ラーエル・ファルンハーゲンの伝記に取り組んでいた。ベンヤミンは、『ラーエル・ファルンハーゲン』に強い関心を示し、一九三九年にはその草稿を読むようショーレムに勧めている。
アーレントは一九三七年にアンダースと離婚し、その後スパルタクス団の一員だったこともある活動家ハインリヒ・ブリュッヒャーと結婚する。彼はベルリンで、ベンヤミンの友人の精神科医フリッツ・フレンケルの助手を務めたことがあった。薬物中毒に陥った労働者の心のケアに、フレンケルの指導の下で従事していたベンヤミンの妹ドーラとすれ違うことがあっただろうか。
パリでアーレントと出会ったブリュッヒャーは、一九三六年六月にアンダースがアメリカヘ去った後、「ベンジ」とチェスに興じ、ブレヒトの詩を論じ合うようになる。ベンヤミンは、ブレヒトの連作詩「都市生活者のための読本」の一節は、ナチズムとスターリニズムに共通の最悪の部分を突いているというブリュッヒャーの指摘を記録している。
ベンヤミンは、友人たちの助力によって一九三九年十一月に解放されているが、アーレントとブリュッヒャーは、翌年の五月に抑留されている。アーレントは、五月二十三日にピレネー山脈の近くのギュル収容所へ送られているが、そこにはドーラ・ベンヤミンもいた。
六月十四日にパリが陥落した後の混乱に紛れて収容所を逃れたアーレントは、ギュルから近いルルドに立ち寄った際に、偶然にもベンヤミンと再会する。アーレントは、この聖母マリアの奇蹟の泉の街にベンヤミンと数週間滞在している。朝から晩までチェスをし、合間に新聞を読み、ユダヤ人をめぐる情勢を論じ合った日々を、彼女はショーレムに宛てた一九四一年十月十七日付の書簡で深い思いを込めて振り返っている。
アーレントはブリュッヒャーを探すため、七月上旬にルルドを発ってモントーバンヘ向かう。独りになったベンヤミンは、ゲシュタポがパリのアパルトマンに踏み込んで、残されていた原稿や手紙を差し押さえたという報せに打ちのめされながらも、八月には活路を求めてヴィザの発行窓口があるマルセイユヘ赴く。彼は九月に、そこでアーレントと再会することになる。
九月二十日にベンヤミンは、彼女に手持ちの原稿の一部をアドルノに渡すよう託している。そのなかには、「歴史の概念について」の自筆の草稿が含まれていた。それは彼がパリで購読していた『スイス新聞』などの帯封や手紙の下書きの裏面を使って書かれている。その六日後にベンヤミンが自殺したことは、十月半ばにアーレント夫妻に伝えられた。
一九四一年五月二十二日にブリュッヒャーとともにニューヨークに降り立ったアーレントは、数日後に当地に亡命していた社会研究所を訪れている。アドルノにベンヤミンの原稿を手渡すためである。彼女は、社会研究所がこれを早い時期に公刊してくれることを期待していた。しかし、その期待は裏切られる。
約二か月後、アドルノたちが当面ベンヤミンの遺稿を出版するつもりがないことを知ったアーレントは、八月二日付のブリュッヒャー宛の手紙で怒りを爆発させている。彼女は、社会研究所の人々がベンヤミンの原稿を握りつぶし、さらにはその思想を横領しようとしていると疑い始めていた。アーレントは、彼らに亡き友に対する忠誠を説いても仕方がないと、ブリュッヒャーとアンダースに漏らしている。
ついにアーレントは、万一に備えて作っておいた原稿の写しを使って、「ベンジ」の思想的遺言「歴史の概念について」を独自に公刊する計画を実行に移そうと、イェルサレムのショッケン社に働きかける。一九四二年に社会研究所から「歴史の概念について」の謄写版が出ても、彼女の疑いは消えなかった。
アーレントは、一九四一年の秋から七年近くにわたって粘り強くベンヤミンの著作集の出版交渉を続けたが、最終的にショッケンとの交渉は不調に終わった。しかし、その過程は、難民としての苦悩を分かち合った「ベンジ」に対する思いの強さを示して余りある。「歴史の概念について」の「ハンナ・アーレント草稿」の全文が、その自筆稿の写真版とともに初めて印刷されたのは、二〇〇六年のことである。

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