『雪の二・二六』より
襲撃から難を逃れた首相岡田啓介が昭和十一年二月二十八日に辞表を提出し内閣総辞職すると、同年三月九日に陸軍・統制派の影響下で広田弘毅内閣が発足した。
広田弘毅内閣は陸軍・統制派の意向を受けて、同年五月十八日、陸相・海相の補任資格を現役の大将・中将に限る軍部大臣現役武官制を復活させて陸軍・統制派が国政に関与する道を開き、さらに同年十一月二十五日に日独防共協定に調印する。
安藤輝三、栗原安秀ら十五名が同年七月に銃殺刑により処刑されて一ヵ月後の八月、陸軍・統制派は三千人に及ぶの抗争に勝利して、高らか大人事異動による大規模な粛軍を行って皇道派を一掃し、積年な凱歌を挙げた。
既に荒木貞夫・。真崎甚三郎は前述のとおり三月に予備役へ編入されているが、皇道派の論客小畑敏四郎中将(同年三月に昇任)も八月の粛軍で予備役となって陸軍から追放された。こうして荒木貞夫・真崎甚三郎・小畑敏四郎・青年将校ら皇道派の「戦争は国防上やむを得ざる場合にわが国一国のみで戦える以外は行わない一国国防主義を採るべきである。日本が支那へ侵攻すれば米英は黙っておらず、支那・ソ連・米・英との収拾不能な全面戦争となる。限られた国家予算を農村救仙などに充当して貧窮層を救済し、支那とは友好静謐を保ち、米英とは不戦を堅持し、ソ連軍の満州侵攻に備える一国敵視主義に限定すべきである」とする対支不戦論は雲散霧消(あとかたも無く消え去ること)した。
こうして、当時のわが国における最大の反戦勢力は壊滅した。
東條英機・武藤章ら陸軍・統制派は、粛軍人事を通じて皇道派が一掃されると、皇道派をお嫌いなされた昭和天皇の寵を得て日本陸軍を完全に支配し、「支那を一撃して原料資源を確保し、ドイツと軍事同盟を結んで、ソ連・米・英との長期持久戦を勝ち抜く集団国防主義を標榜する永田鉄山の永田構想」を奉持して支那へ侵攻し、さら永田構想に基づいてドイツと同盟し無謀な太平洋戦争への道を歩むのである。
こののち支那事変における幾多の和平工作の努力が実らなかったのは、対支不戦を唱えた皇道派が粛清されて消滅し、支那一撃を強調する東條英機ら統制派が陸軍を完全支配し、何人たりとも統制派の支那一撃の強固な意思を覆すことができなかったからである。
すなわち一言でいうなら、二・二六事件によって、「最大の反戦勢力である陸軍・皇道派が粛清されて根絶やしになり……」抗争に勝利した陸軍・統制派が天皇制日本軍国ファシズムを完成させて、日中戦争に踏み込み、ドイツと軍事同盟を結んで太平洋戦争に突入するのである。