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アラブ帝国の未完の夢

『帝国の最期の日々 上』より アラブ帝国の未完の夢--七世紀-一五世紀

勝利と分割(六二八-六六一年)

 アラブの発展にはさまざまな要因があり、まずアラビア半島の人口増加やベドウィン族の戦士としての価値観があげられる。神の道においての聖戦ジハードが宗教的に正当化されているのである--偶像崇拝者や、啓典の民[キリスト教やユダヤ教など、同じ啓典をもとにするイスラム教徒以外の異教徒]との戦いが、コーランの有名な「剣の節」で容認されている。

 発端は六二八年、ムハンマドがメッカの住民に戦争を仕掛け、彼らのシリアとの交易を妨害するために北のオアシスをタイマー(アラビアの北西)まで征服しようとしたことにはじまる。翌六二九年、死海の東、ムウタでのビザンティンとのはじめての戦いには敗れたが、六三〇年にはビジャーズ[紅海沿岸一の征服に成功した。同年、メッカを奪取したことで--その三年前にササン朝がビザンティンに敗北していたこともくわわり--、アラビア半島じゅうのベドウィン族が結集する。それを機に、ムハンマドは再度ビザンティンに戦争を挑み、同じ六三〇年の暮れに大遠征隊で出発、このときはアラビアの国境近くのタブークまで進攻した。六三二年五月、病気になった彼は(同八月に死去)、北に向けての新たな遠征を命令している。

 ベドウィン族との同盟が爆発的に広がったのは、彼らが個人的な契約だと思っていたことが大きいだろう。預言者ムハンマドの初代カリフ(後継者)、アブー・バクルの最初の仕事は、自身の権威とイスラム教をアラビア全域に認めさせることだった。改宗を掲げる新たな戦争は、彼の時代(六三二-六三四年)と、彼の後継者であるウマルの時代(六三四-六四四年)にひんぱんに行なわれ、アラビア半島の外まで発展する。メソポタミア(イラクとして知られる)では六三三年から六四二年にかけてササン朝と戦い(ペルシアの支配は六五一年まで続く)、シリアでは六三五年と六三六年にダマスカスと、六三八年にはエルサレムと、エジプトでも六三九年から六四一年までビザンティンと戦った。いずれも電撃的な成果をあげたのは、二つの帝国が双方とも長期の戦争で疲弊していたからである。アラブ人側には権力を奪うだけで国家財産が手に入った。ビザンティンでもササン朝でも、大貴族は領土を放り出して逃走し、税金を徴収する行政制度(貨幣や言語も)もそのまま残していった。彼ら自身はアラブ一色になった新しい都市に、部族ごとに分かれて住むようになる。こうしてイラクには六三六年にバスラが、六三七年にはクーファが創設され、エジプトでは六四一年にフスタートが創設された。いずれもマディーナから離れていたことから、それぞれの総督は好き勝手に行動できた。たとえばシリアのムアーウィアや、エジプトのアムル・イブン・アル=アースなどである。

 コーランには、征服された民族の運命については何も指示されていなかった。ムハンマドはマディーナではユダヤ人を追放するか虐殺したのだが、北部のオアシスでは新しい制度をとりいれた。啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)を保護する制度「ズィンミー」で、シバ教徒とゾロアスター教徒もくわえられた。しかし、非アラブ人でイスラム教に改宗した者たちはマワーリーとよばれ、本来ならイスラム共同体で同等にされるべきところ、アラブ人貴族の「庇護を受ける隷属平民」という地位をあたえられただけだった。

 もう一つは政治的な問題で、ムハンマドが後継者を決めていなかったことから発生する。後継にふさわしいのは彼自身の家族(とくに最初の妻ハディージャとの娘ファーティマと結婚していた彼の従兄弟アリー)なのか、その一門(ハーシム家のバヌ・ハーシム)か、その一族(クライシュ族)なのか? アリーはムハンマドの生存中は重要な職務についていなかったこともあり、初代カリフには一族からクライシュ族のアブー・バクルが選ばれた。彼はムハンマドに共鳴して改宗した古参の仲間(サハーバ)で、メッカヘの最初の巡礼の主導者かつ、ムハンマドの最愛の妻とされるアーイシャの父でもあった。二年後の六三四年、アブー・バクルは死の床で後継者に同じくクライシュ族のウマルを指名する。彼もまたサハーバで、やはりムハンマドの義父だった(娘が四番目の妻。娘婿アリーとファーティマとも家族関係になる)。ウマルはペルシア人による暗殺の犠牲になったのだが、死のまぎわに後継者問題を調整する時間はあり、伝統にしたがって六人の後継者からなる委員会が開かれ、なかから一人を選ばなければならなかった。そこで選ばれたのはアリーに対抗していたウスマーンで、やはりサハーバでクライシュ族、彼もまたムハンマドの娘婿(彼の二人の娘と結婚)だった。六四四年から六五六年までのウスマーンの時代、征服はなかったのだが、しかし帝国の体制のなかで彼の家族や一門のひいきが目立った。そのバヌ・ウマイヤ家はなにあろう、ムハンマドの一門バヌ・ハーシム家の長年の敵でもあった。

 ウスマーンの政治はいたるところで不満を生んだ。征服の恩恵に浴しないマディーナの住民、クライシュ族以前に改宗した者、コーランの手直しに反対する信者、そしてカリフの地位の権利があると主張する預言者ムハンマドの家族である。ついにはアーイシャとアリー、元サハーバのズバイル・イブン・アル=アウワームとタルハ、エジプトを征服したのに総督を解任されたアムル・イブン・アル=アースらが団結し、それがマディーナでのウスマーン暗殺につながった。いかに彼の命が狙われていたとはいえ、この事件はカリフがすでに威光を失っていたことを示すものだった。ついに次のカリフにアリーが選ばれたのだが、しかし彼には暗殺の汚名がっきまとい、急激に仲間を失って、これがはじめての「フィトナ」--イスラム教徒間の戦闘--へと発展する(六五六-六六一年)。この戦争が行なわれたのは、すでに都市としての力を失っていたメッカでもマディーナでもなく、アラビアの外のイラクだった。アリーは第四代カリフとしてイラクのクーファを首都にしたのである。

 六五六年一二月、アリーはバスラ郊外でのいわゆるラクダの戦い「アーイシャがラクダにとりつけた座椅子に座って参戦したことから」に勝利、そこでズバイルとタルハは殺され、アーイシャはマディーナに送り返された。このときアラビアとエジプトは無関係を決めこみ、ウスマーンの従兄弟、ムアーウィヤが総督をつとめるシリアがアリーの抵抗勢力の中心になる。ムアーウィヤはウスマーン暗殺の裁きを求め、自分の地位をアリーが任命した総督にゆずるのを拒否、紛争は避けられない事態となる。二つの軍隊はユーフラテス川沿いのスィッフィーンで相対した。動きのない数週間がすぎたあとの六五六年七月二六日に衝突、アリーの軍が優位を占めたとき、ムアーウィヤ側についたアムル・イブン・アル=アースが槍の先にコーランの紙片をつけたものを兵士に放たせ、ここは人間ではなく神に頼るべきだと訴えた。休戦が決まり、調停が交渉された--しかしアリーはそれを受け入れつつも、カリフの地位を格下にする案にしている。さらに、一部の支持者が人間による調停を拒否して彼の一派から離れた。それがハワーリジュ派(「派を出た者たち」)で、イスラム教ではじめて離脱した会派となる。ようやく調停の決着がついたのは六五八年一月、パレスティナのクーファとダマスカスの中間地点で、アリーに対して前任者の暗殺と、カリフの地位の格下げの罪を認めている。六五九年、アリーはまずハワーリジュ派への反撃にうってでて、イラクで圧勝した。翌六六〇年、エルサレムでムアーウィヤは支持者たちからの要望でカリフになり、六六一年一月、アリーはクーファでハワーリジュ派の一人に暗殺された。ムアーウィヤと戦うための遠征を準備していたときだった。アリーの死後、彼の信者たちが集まってシーア派を結成、この一派は簒奪者との闘いを賛美する神秘的な色あいをおびていく。カリフの地位がイスラムを主要な二派に分割する原因となったのである。預言者が創設したイスラム共同体「ウンマ」は三〇年と続かなかったことになる。

ウマイヤ朝の拡張(六六〇-七五〇年)

 この最初のイスラム教徒間の戦闘のあと、ムアーウィヤはカリフの威光を復活させ、帝国の中心に置くようなイスラム共同体を設立すべく、六六一年、新たな本拠地をダマスカスに置く。この政権の土台は、アラブ部族との忠実な関係、地方総督への管理の強化、カリフの世襲制--これは新しい制度で維持されることになる--にあった。こうしてムアーウィヤはイスラムの最初の王朝、ウマイヤ朝を創設した。安定した体制になったことでふたたび征服がはじまり、今度はビザンティンとの海陸の境界線、トロス山脈を越えていく。コンスタンティノープルの包囲網は六六八年から翌年にかけて複数回、六七四年から六八〇年にかけては一連の襲撃が行なわれた。しかしムアーウィヤの体制は彼の死で弱点をさらけ出し、二回目のフィトナ(イスラム教徒間の戦闘)が勃発する(六八〇-六九二年)。生前のムアーウィヤはくりかえされるハワーリジュ派の反乱を制圧し、アリーとファーティマの長男のカリフ、ハサンを巧みに無視したのだが、彼の死後、アリーの二番目の息子フサインはムアーウィヤの息子で後継者のヤズィード一世を認めようとしなかった。フサインは支持者の要望でカリフに推されるのだが、しかしクーファに合流した六八〇年、カルベラーの戦いで虐殺された。その復讐に、アラブの貴族アル=ムフタールはクーファでの反乱を支援するのだが、その先頭に立った彼らの異母兄弟ムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤは六八七年に殺された。いっぽう、アブー・バクルの孫でアーイシャの甥、ハーシム家のアブドゥッラー・イブン・アッズバイルもメッカでカリフを名のり出るのだが、六九二年に抹殺されている。

 混乱を立てなおしたのは第五代カリフのアブドゥル・マリク(在位六八五-七〇五)で、制度をアラビア化(言語と貨幣)することで組織の強化と調整を行ない、税制も改善して、ウマイヤ朝はふたたび拡張するのである。東は、中央アジアではホラーサーン(現在のイラン北東部)の先へ行き、ングディアナ(ウズベキスタンとタジキスタンの一部)では七〇六年から七〇九年にかけてブハラを占拠、ホラズム(ウズペキスタンとトルクメニスタン、イランの一帯)では七一〇年から七一二年にかけてサマルカンド、七一三年から七一四年にフェルガナ(ウズベキスタンの肥沃な谷)を占拠、さらにベルーチスターン(イラン南東部からパキスタン南部)に向かって、シンド(インダス川のデルタ地方)--インダス川にたどり着いたのは七一一年から七一二年--、さらに七一三年にはパンジャーブまで行く。西は、北アフリカに向かい、六七〇年にケルアン「チュニジア」の要塞を建設、六八一年には大西洋まで大遠征隊を派遣し、六九五年にはカルタゴを占拠、七〇五年から七〇八年にかけて北アフリカ--ベルベル人の抵抗にあったことで最難関--、七一一年にはジブラルタル海峡を制覇する。そしてついに七一六年八月から七一七年の九月までコンスタンティノープルを再度包囲するのだが、ビザンティンに防衛されている。この急速で驚異的な拡張の限界を示す戦いが二つある。七三二年にフランク王国と戦って敗れたポワティの戦いと、七五一年に唐時代の中国と戦ったタラス河畔の戦いで(ウマイヤ朝のあとのアッバース朝時代)、このときは勝利したのだが、それ以上先への進攻を止めている。

 イスラム教徒の征服には驚くべきものがある。実際、アラブ人は戦士として特別にすぐれていたわけではなかった。ラクダに乗って戦ったわけではなく、騎馬も減っていた。彼らの勝利は、弱体化した二大帝国の中心に位置して辺境の地方を攻撃したことと--防衛が不備になっていた--、つねに戦闘できる部隊がいたこと、戦士の宗教的な興奮、戦利品の魅力、そしてまた、征服した地方で勝手気ままに行動でき、順応するのになんの問題も生じなかったところにある。

 しかし七四〇年代になって混乱が再発する。その原因となるのはハワーリジュ派であり、シーア派、ペルベル人、アラブ部族間の敵対関係、ハーシム家の野望、そして最後が改宗した非アラブ人、マワーリーにあてられた運命である。それが形となってあらわれたのがマグレブでのベルベル人の反乱で(七三九-七四三年)、ハワーリジュ派による布教と、三回目のフィトナによって火がつき、七五〇年のウマイヤ朝の崩壊へといたる。カリフによる最初の試みは失敗に終わったのである。
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