未唯への手紙
未唯への手紙
医者は患者をこう診ている(うつ病、自殺懸念)
『医者は患者をこう診ている』より
〇八時二三分 ミスター・E・K(うつ病、自殺懸念)
(一〇分経過)
彼は感情のままに話しているように聞こえる。自分が行動に移すのではないかと心配している--まるで自分のコントロールが及ばないことであるかのように。彼にはここのところ、社会的・心理的なストレッサーが多々あった。そのうえ、人口統計学的に見ても自殺のリスクが高い。さらには、うつ病の重症度を評価するチェックシート〈PHQ-9〉の評価も、私の直観を裏付ける--彼の抑うつ状態のスコアは二二。〝重度〟である。症状は先週より悪化しているようだ。そしてなにより--彼は自暴自棄に見える。彼を見ていると、これまで目にしてきた、あるいは同僚から話を聞いた患者さんのことが思いだされた--GPに診てもらった直後に自殺を試みたり、実際に自殺したりした患者さんたちのことが。イギリスでは、四五歳未満の男性の死因の第一位は自殺だ。自動車の衝突事故、心臓病、がんよりランクが高いのだ。自殺はまた日本の若い男性の死因一位でもある--日本における自殺率は、イギリスのそれより三倍も高い。ある研究結果によれば、自殺で命を落とした人の約四五%が、亡くなる一ヵ月以内にプライマリ・ケアの医師に診察してもらっているという。本気で自殺したいと望んでいる人がいるとしたら、思いとどまらせる方法はまずない。とはいえ、私が患者さんの自殺リスクをきちんと評価する努力もしないうちに、患者さんがみずからを殺めようものなら、私は最低の医師だ。
「よく聞いていただけますか。私はあなたのことが心配です。先週より抑うつ状態が少々悪くなっているようです。薬の効果があらわれるまで一週間以上かかる場合がありますし、あなたはいま自殺しようと考えはじめている。メンタルヘルスの専門医にアドバイスを求めるべきだと思うのですが、そうしてもよろしいですか?」
「ええ……わかりました」彼はのろのろとうなずく。
私は容赦なく時間がすぎていることを自覚している。とにかくいまはメンタルヘルスの専門医である同僚に電話をかけ、助言をもらうという責任をはたさなければならないIできれば専門医に緊急の評価をしてもらいたいところだ。私は深く息を吸うーそのためにはだいぶ時間を割かなければならない。いったん患者さんに自宅に帰ってもらうことはできるだろうか。そして診察を終えたあと、精神科のチームに連絡してもいいだろうか。それとも自殺リスクが高いことを考えれば、私が診察を終えるまでここで待っていてもらうほうがいいだろうか。ひょっとすると、午前の診察にまた一〇分ほどの遅れがでることを覚悟しても、いますぐ精神科チームに電話をかけるべきなのかもしれない。待たされた患者さんが腹を立てるとしても。
「のちほど、お電話してもかまいませんか? 携帯電話はおもちですか? 精神科のチームと連絡をとるのに少々時間がかかるかもしれません。ここで長いあいだお待ちいただくのも恐縮ですから」
「わかりました」彼は私に携帯電話の番号を伝える。
「どこでお待ちになる予定ですか?」
「カフェで」
「わかりました。一時間後くらいにお電話を差しあげますが、それでよろしいですか? 携帯電話の電源をオンにしておいてください。精神科に診てもらえるよう手配しますから。それまでおひとりで待っていても大丈夫でしょうか?」
「大丈夫だと思います」
彼が公共の場所にいるつもりだと聞き、私はほっとする。彼はこれまで自殺のことをしばらく考えっづけてきたはずだが、まだ行動には移していない。そして、しばらくは大丈夫だと考えている。私が彼に電話をかけるときには、専門医チームからの支援を得られているはずだ。そこで彼がいまから一時間以内に自殺するリスクはきわめて低いと、私は判断する。ゼロではないが、ごくわずかな可能性しかないはずだ。
「けっこうです。では一時間ほどしたら、お電話いたします」
「ありがとうございます」
彼は立ちあがり、私のほうをこっそりと見る。私も立ちあがり、足を引きずりながら歩く彼のうしろにつき、両腕を広げ、彼の身体を囲むようにしてドアまで歩く。まるで油断のならない細い道を歩く親が子どもの身を守りながら進んでいくように。
彼が診察室をでていくと、私は赤い表紙の大きなノートを手にとり、彼の名前と電話番号、そして自分のやるべきタスクを書きとめる。精神科医に連絡を入れ、患者さんに電話をかけること。この赤いノートに書きとめておけば、私はかならずその作業をする。私はほんの数秒、考え事をする時間を自分に与える。はたして自分は適切な診察をしただろうか。それから、パソコンのカルテに診察の記録を入力する。書き込んでいるうちに頭のなかを整理できるし、彼の自殺リスクに対する私の評価をくわしく記録に残せるうえ、彼が話した内容を首尾一貫した話にまとめることもできる。入力を終えると、私はカルテを読みなおし、やはり自分は適切な行動をとったと考える。だれかに疑問をぶつけられても大丈夫だ。こうして頭のなかが整理できたため、一時間ほどたってから精神科医チームに電話をかける際になにを話せばいいのかという心積りもできる。
〇八時二三分 ミスター・E・K(うつ病、自殺懸念)
(一〇分経過)
彼は感情のままに話しているように聞こえる。自分が行動に移すのではないかと心配している--まるで自分のコントロールが及ばないことであるかのように。彼にはここのところ、社会的・心理的なストレッサーが多々あった。そのうえ、人口統計学的に見ても自殺のリスクが高い。さらには、うつ病の重症度を評価するチェックシート〈PHQ-9〉の評価も、私の直観を裏付ける--彼の抑うつ状態のスコアは二二。〝重度〟である。症状は先週より悪化しているようだ。そしてなにより--彼は自暴自棄に見える。彼を見ていると、これまで目にしてきた、あるいは同僚から話を聞いた患者さんのことが思いだされた--GPに診てもらった直後に自殺を試みたり、実際に自殺したりした患者さんたちのことが。イギリスでは、四五歳未満の男性の死因の第一位は自殺だ。自動車の衝突事故、心臓病、がんよりランクが高いのだ。自殺はまた日本の若い男性の死因一位でもある--日本における自殺率は、イギリスのそれより三倍も高い。ある研究結果によれば、自殺で命を落とした人の約四五%が、亡くなる一ヵ月以内にプライマリ・ケアの医師に診察してもらっているという。本気で自殺したいと望んでいる人がいるとしたら、思いとどまらせる方法はまずない。とはいえ、私が患者さんの自殺リスクをきちんと評価する努力もしないうちに、患者さんがみずからを殺めようものなら、私は最低の医師だ。
「よく聞いていただけますか。私はあなたのことが心配です。先週より抑うつ状態が少々悪くなっているようです。薬の効果があらわれるまで一週間以上かかる場合がありますし、あなたはいま自殺しようと考えはじめている。メンタルヘルスの専門医にアドバイスを求めるべきだと思うのですが、そうしてもよろしいですか?」
「ええ……わかりました」彼はのろのろとうなずく。
私は容赦なく時間がすぎていることを自覚している。とにかくいまはメンタルヘルスの専門医である同僚に電話をかけ、助言をもらうという責任をはたさなければならないIできれば専門医に緊急の評価をしてもらいたいところだ。私は深く息を吸うーそのためにはだいぶ時間を割かなければならない。いったん患者さんに自宅に帰ってもらうことはできるだろうか。そして診察を終えたあと、精神科のチームに連絡してもいいだろうか。それとも自殺リスクが高いことを考えれば、私が診察を終えるまでここで待っていてもらうほうがいいだろうか。ひょっとすると、午前の診察にまた一〇分ほどの遅れがでることを覚悟しても、いますぐ精神科チームに電話をかけるべきなのかもしれない。待たされた患者さんが腹を立てるとしても。
「のちほど、お電話してもかまいませんか? 携帯電話はおもちですか? 精神科のチームと連絡をとるのに少々時間がかかるかもしれません。ここで長いあいだお待ちいただくのも恐縮ですから」
「わかりました」彼は私に携帯電話の番号を伝える。
「どこでお待ちになる予定ですか?」
「カフェで」
「わかりました。一時間後くらいにお電話を差しあげますが、それでよろしいですか? 携帯電話の電源をオンにしておいてください。精神科に診てもらえるよう手配しますから。それまでおひとりで待っていても大丈夫でしょうか?」
「大丈夫だと思います」
彼が公共の場所にいるつもりだと聞き、私はほっとする。彼はこれまで自殺のことをしばらく考えっづけてきたはずだが、まだ行動には移していない。そして、しばらくは大丈夫だと考えている。私が彼に電話をかけるときには、専門医チームからの支援を得られているはずだ。そこで彼がいまから一時間以内に自殺するリスクはきわめて低いと、私は判断する。ゼロではないが、ごくわずかな可能性しかないはずだ。
「けっこうです。では一時間ほどしたら、お電話いたします」
「ありがとうございます」
彼は立ちあがり、私のほうをこっそりと見る。私も立ちあがり、足を引きずりながら歩く彼のうしろにつき、両腕を広げ、彼の身体を囲むようにしてドアまで歩く。まるで油断のならない細い道を歩く親が子どもの身を守りながら進んでいくように。
彼が診察室をでていくと、私は赤い表紙の大きなノートを手にとり、彼の名前と電話番号、そして自分のやるべきタスクを書きとめる。精神科医に連絡を入れ、患者さんに電話をかけること。この赤いノートに書きとめておけば、私はかならずその作業をする。私はほんの数秒、考え事をする時間を自分に与える。はたして自分は適切な診察をしただろうか。それから、パソコンのカルテに診察の記録を入力する。書き込んでいるうちに頭のなかを整理できるし、彼の自殺リスクに対する私の評価をくわしく記録に残せるうえ、彼が話した内容を首尾一貫した話にまとめることもできる。入力を終えると、私はカルテを読みなおし、やはり自分は適切な行動をとったと考える。だれかに疑問をぶつけられても大丈夫だ。こうして頭のなかが整理できたため、一時間ほどたってから精神科医チームに電話をかける際になにを話せばいいのかという心積りもできる。
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