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社会的な信頼と金融危機

『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?』より 信頼とパニック

現代社会は脆い。予想しない方面から新風が吹き込んでくると、一見すると強固に見える建物がたちまち崩壊するような危険な瞬間が、まれとはいえ確実にある。こうした崩壊はそれが社会生活における目に見えない構造の場合にも同じくらい危険だ。そうした目に見えない構造とは、相互不信のかわりに信頼が生じるように保証してくれる、非公式な規範や正式な制度のことだ。崩壊をもたらすのは、戦時中のように外部かもしれないし、もっと謎めいた場合としては、それが内部から引き起こされるかもしれない--水面下で相互の態度がだんだん展開し、それが当然と思われていた信頼に突然疑念をつきつける。結果として生じるのが物理的な暴力の噴出だろうと、互恵交換の経済の崩壊だろうと、こうした水面下の展開とそれが突然目の前にあらわれる形を理解するのは、いま暮らす世界を理解するにあたり、最大の課題をつきつけるものの一つだ。

二〇〇七年に始まった金融危機はそうした噴出の一つだった。それは荒っぽい衝撃だった。世界中のほとんどで、長期的に安定した経済成長を実現して自画自賛していた既存の政策立案者たちにとってだけでなく、将来についてもはや心配などしなくなっていた、多くの労働者、貯蓄者、投資家にとっても衝撃だった。ものの数カ月で、世界は一九世紀以来初めてイギリスの銀行で取り付け騒ぎが起こるのを目にしたし、系統だった指標ができてからの二〇年間で初めて、アメリカの住宅価格が継続的に下落したし、世界の株式市場で取引される株式の価値は半値以下となり、インターバンクの貸付市場はまったく動かなくなった。二年のうちには、アメリカのローンはIMF推計で老若男女含めアメリカ国民一人あたり九〇〇〇ドルの損失を計上し、主要先進国の産出は大恐慌以来最大の下落を示した。これはどんなパニックだったのか? その水面下の原因とは何で、それが地上に噴出したきっかけは何だったのか?

本書は人々の社会生活を下支えしている信頼についての本であり、特にまったく見知らぬ相手に対し、仕事や貯蓄や命さえ預けられるようにするものは何かという話をあつかう。また、その信頼が崩壊したときに何が起こるかも述べる。最近では金融の世界でそれが起きたし、それ以外に歴史上で何度も起きていることで、ときにはとても恐ろしい結果をもたらすこともある。歴史家や社会学者たちは昔から社会的パニックに魅了されてきたし、その原因が謎めいていればいるほど、学者たちはそれをおもしろがってきた。一五世紀から一七世紀にかけてのヨーロッパ各地の社会で、高齢でちょっと風変わりな老女たちを主とする何十万人という人々が、実は危険な魔女で拷問と死刑に値すると思われるようになったのはなぜ? 「不合理性」では答えにならない。ニュートンやロックですら魔術を信じていたのだから、知性と科学的な見通しはパニックの予防にはならない。有史以来、いかれた偏執狂じみた妄想にとらわれやすい人々はいつでもどこにでもいた。でもほとんどの大規模な現代社会は、彼ら、あるいは少なくともその妄想を、周縁部にとどめておくことができる。なぜそれがときどきあふれ出て、主流にまで流れ込むのだろうか?

二〇〇七年の金融危機はまだ大規模な暴力にはつながっていないが、一九三〇年代の大恐慌が第二次大戦にある程度は寄与したように、まだまだ安心するには早すぎる。でもこの危機は他のありがちなパニックとはちがう。初期近代ヨーロッパの人々は、仲間の不幸な市民たちのちょっとした風変わりな習慣に対する疑念を、あれほどにエスカレートさせる理由などまったくなかった。二〇〇七年の金融危機は、青天の霧震で突然あらわれたものではない。時間をかけて発達したものだし、持続不可能な好況の後にやってきたものだ。この危機の間に生じた信頼の解体は、その信頼がいかにいい加減に構築されていたかを考えないと理解できない。なぜ好況が持続不可能だったかを理解することが、その後のパニックを理解する鍵となる。そしてそれは、社会的信頼の持続可能なアーキテクチャ構築を理解する鍵でもあるのだ。

あの金融危機は、本書の議論の事例でもあり、検証材料でもある。私たちが見知らぬ相手に置く信頼を支えるのは、社会生活の各種制度だ。その信頼がときどきまちがえるのは、ほとんどの場合そうした制度があまりに見事に機能するので、そもそも見知らぬ相手を信用すること自体がいかに奇跡的なことか、私たちが忘れてしまったせいなのだ。見知らぬ人を信頼するのは、端的に言って、私たちにとってはきわめて不自然なことなのだから。なぜ見知らぬ人を信じるのがそんなに不自然なのか、そしてなぜそれでも見知らぬ人をごくあたりまえにあっさり信用できるようになったのかを理解するためには、人間の進化をはるか過去にさかのぼる必要があるのだ。
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