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家族の衰退

『現代思想講義』より

家庭という神話

 フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』によると、一九世紀、そのころまさに「子ども」という特別な時期があると認識されるようになったという。ホモ・サピエンス二○万年の歴史において、それは稀有なことだった。

 前近代における家族とは、「一族郎党」、血縁関係および姻戚関係、それに加えて召使たちや家畜たちを含めて家族だった。そうしたなかで、産まれてきた子どもがだれにどのように世話され教育されるかは、それぞれにおいて、また地域と文化によって千差万別であった。たとえば、古代ギリシアの市民たちは、外部のひとびとを戦争等によって拉致してきて、家内奴隷として生産やサービスに従事させていた。

 アリエスによると、父と母と子を単位として、そのなかで「愛」によって子どもが育てられるとされたのは、一九世紀、西欧近代においてである。土地に根づいていたひとびとが、資本主義の荒波によって分断され、土地から切り離されて都会に「個人」として住まって労働者になったとき、愛の理念のもと、土地を疑似的に再確立するようなものとして近代核家族が成立した。エリザベート・バダンテール『母性という神話』によると、母親が自分が産んだ子どもを育てる本能をもつという「母性愛」の神話も、このころできた。

 「家族」という語で今日イメージされているものは、人類の歴史においては大変珍しい形態である。なるほどその生物学的関係はすべての有性生殖の生物に共通したものであるが、子どもがさしあたっては父と母とのみ同居して成長し、やがて家族から出て新たな家庭を築いて親になるというプロセスは、一九世紀以降に普及した新しい生活形態なのであった。

 マロの『家なき子』が裏返しに表現していた「家庭」というュートピア的神話。「ユートピア」とは、どこにもない場所という意味であるが、その愛の理想からの隔たりに一生苦しむひとすら出現するようになった。デーアミーチス『母をたずねて三千里』も同様である。

 当時生まれた、幼児期の父子関係が人生のすべてを規定するという精神分析理論は、そうした特定のひとびとへの実践的治療のための仮説にすぎなかった。家庭を意識しすぎたことによる病的な精神は、決して人間の普遍的な問題ではなく、一九世紀末から二〇世紀にかけてのブルジ’ワ家庭崩壊の「時代の病」にすぎないのだ。フロイトの理論は、近代的人間の精神構造の理論であって、普遍的人間については何も教えてはくれなかった--そもそも「普遍的人間」など存在しないのだが。

 戦後アメリカから入ってきたTVドラマには、「何でも知っている」パパ(一九五四上(三年)や「世界一」のママ(一九五八上(六年)が描かれていた。『宇宙家族ロピンソン』(一九六五~六八年)の、宇宙を放浪してさえしながらも、何と毅然として穏やかな親たちであることか。しかるに実際の家庭では、お母さんがいい加減でも、お父さんが自分勝手でも、それは普通のことなのであり、「愛している」などといいながら、猫かわいがりでぺットのように扱っていたり、あるいは衣食住の世話だけで放置していたりしても、それは普通のことなのである。

 もしあなたの親が真に子どもの将来を想って親身の世話をしてくれているのなら、それは僥倖として自分の運命に感謝すべきであろう。というのも、その親は、あなたにではなく、たまたま産まれてきた子に対してそうしているだけにすぎないのだから……。

家族の崩壊

 今日において、子どもが大学にまで進んでいるあいだ、労働者とならない空白期間(モラトリアム)が延長されていることも、女性が社会進出して労働者となることが推奨されていることも、以上の過程に矛盾しているょうに見える。それは、資本主義の発展のなかで、家族の位置づけにおいて生じてきた矛盾であろうか。

 その矛盾の解決は、プラトンが『国家』の第四巻で暗示していたように、あるいは(クスレー『すばらしい新世界』に描かれていたょうに、人工授精および人工子宮による将来有能な子どもの生産、および施設による集団育児であろうが、しかし、そのことは、「自由で平等な個人」という近代の理念に対して、大きな葛藤を引き起こす。

 ひとびとは矛盾を抱えたまま生活していくだろうが、家庭崩壊や生涯独身者は、例外的な現象ではなく、資本主義の行きついた、避けられない現象なのではないだろうか。

 ひとは、どの時代でも、その時代に生まれついた条件のもとで思考する。それゆえ、あるひとびとが、核家族的な家庭の理念を前提にして、それをひたすら維持すること、再実現することに人生を賭けようとするほどである。だが歴史的には、それは近代、この一五〇年の特殊な現象でしかなかった。

 愛のある家族がよいものであるとか、実はそうでもなかったとかいう問題ではない。すべての家族に自動的に愛が生まれるわけではないのに、愛があるはずとされた家庭の理念が、精神分析が示したょうに--、いかに悲惨な家族関係を導いたかという問題でもない。

 ただ指摘すべきことは、次世代の子どもたちは、もはやそうした理念を理解できなくなるに違いないということである。いまやSNSのまだ見ぬ「友だち」の方が、家族よりも親密だと考える子どもたちも多い。「死にたい」というメッセージに「いいね!」と応答した見知らぬひとのところに出かけていく若者たち。

 次世代の子どもたちは、IT化されIoTのなかで働くAI機械にとり巻かれた環境を前提として育つ。そのなかで、労働の意味も、人間であることの意味も、いまとは別様に理解されなおすことになるだろう。

 そのとき家族がどうなっており、どう理解されるようになっているかは分からない。今日すでに子どもたちは保育所や学校や塾によって、なかんずくネットによって、ほぼ直接的に社会のなかに産まれてきており、家族の意義は弱まる一方である。

 子どもが親のいうことをほとんど聞いてくれなくなりつつあり、家族のあいだの親密な人間関係にも、自分のものの所有にも、それほど執着しなくなりつつある。愛とは所詮その程度のものだったのか……、愛はいまやネ″卜の「自己承認欲求」にすり替えられ、古代的な徳や利他的な自己犠牲は神話となる。

 愛とはもとより執着のことでもあるが、執着するものが見せかけの自分、社会的評価の対象としての「個人」であるとき、愛は虚栄心(プライド)と呼ばれてきた。とはいえ、古代の価値も近代の価値も消え去るとき、虚栄心という、現代風にいえば自己承認欲求を非難する理由はない。ただ、そのことによって自殺したり殺人したりまでするひとたちの存在を、どう考慮に入れておくべきかは問題である。

液状化する社会

 親戚縁者一同が近隣に住まっていたころからすると、近代における核家族化それ自体が、すでに家族崩壊の一歩なのだった。数千年のあいだおなじ土地に暮らしてきたひとびとが、この一〇〇年で日本各地に散らばってシャ。フルされてしまったことに、驚かされないではない。

 とはいえ、ボヘミアンやジプシーやロマやュダヤ人たちが、西欧社会の流民として、移動をくり返してきたことも忘れてはならない。いま、シリア難民が西欧に溢れるのも、特殊な事象なのではない。人類が定住するようになったあとも、こうした流民たちが社会を動揺させつつ、あたりまえに階層を形成していたのである。わが国の場合にも、渡来人を含め、そのようなことがなかったわけではないであろう。

 ともあれ、父と母と子の親密な核家族(家庭)は、家族という集団の崩壊過程の「時分の花」(世阿弥『風姿花伝』)であったにすぎず、しかも少子化というが、夫婦は子どもを作らないで「いま」を楽しみ、多くの子どもたちは、自責の念にかられながら、あるいは無関心になって、老親を見捨てるようになりつつある。

 それは、ドゥルーズ/ガタリのいう「脱土地化」であろうか、土地という、知覚と振舞において身体と密接に関わりあっていた地盤から、労働も家族も切り離され、ひとびとは抽象的な社会、ネットニュースでしか知られない、もろもろのどこかの出来事の膨大ながらくたの表面を浮遊する生き物にたった。

 AI化と家族崩壊の現象のあいだには、因果関係があるわけではないが、ポストモダンヘ向かっての、おなじひとつの地崩れであるとはいえる。それは、人間と機械の違いが本質的なものではなくなってきていることの二つの現象ということであろうか、やがては家族も消滅して、いみじくもホごノズが家族を無視して構想した近代市民社会、個人が生まれたときから社会に直結している状態が、リアルに出現しつつあるように思われる。

 家族がなくなるというのは想像し難いことであろうかー-そこでは、どのようにして子どもが産まれ、育てられるのか。しかし、二〇〇年まえのひとびとも、まさか男女二人で家庭を作り、子どもを育てているなどという今日の状況は、想像できなかふたに違いない。

 現在の社会状態は、崩壊しつつある家族の廃墟と、虚栄心の場としてのネットと、そこに灰汁のように浮遊する政府や企業といった組織から成る混沌とした場所である。その隙間すきまに一陣のつむじ風のようにして、数多のハラスメント、数多の暴力が、ところ構わず発生する。

 それに対し、相変わらず「国家」という体制の網を被せようとする一群のひとびともいるし、個人を自由で平等なものとして維持するために「人権」を叫ぶ一群のひとびともいるが、現在は、そのいずれであれ、真に統合した全体を作りだすにはいたらない。

 現在は、「社会状態の零度」にある。零度とは、水が氷になる温度であり、氷が解ける温度である。凍結しつつある一方で、ジグムントーバウマンのいう「液状化する社会」‐-人間はひたすら消費し消費され、社会を支える個性的な個人がいなくなる(『リキyドニフイフ』序論)。

 最近、経済産業省の若手官僚たちによる『不安な個人、立ちすくむ国家』(二〇一七年)というレポートが話題になった。「自由のなかにも秩序があり、個人が安心して挑戦できる新たな社会システム」が必要だというのだが、それがどのようなものかは書いていない。どうしてそれがよいことかも、そもそもそのようなものが可能なのかも書いてない。国家の域を出ないその社会システムでは、「挑戦」できるのは官僚たちや、その方針にのっとった経営者たちだけかもしれないと感じたひともいるのではないか。

 AIの普及と家族の衰退は、構造主義的にいえば、どこかで共通している歴史の変化の二つの現象である。そこでは、人類全体の人口増加にもかかわらず、人間の、質量ともの減少が進む。「人間の終焉」と述べたのはフーコーであったが、それは近代的核家族の崩壊とともに、それによって育てられてきた「人間」と呼ばれた立派なひとたちが社会をリードしていくという、統治の神話が消えたということであった。社会とは、ホッブズがとうから述べていたように、真に単なる個人の集合であるということになるのであろうか。
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