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ベルギー ブルージュ マルクト広場

『オランダ ベルギー ルクセンブルク 世界遺産と歴史の旅』より ブルージュ

ブルージュの繁栄と衰退

 ブルージュは中世の面影を残す町で、運河で囲まれた楕円形の町である。

 運河沿いに城壁が張り巡らされていたが、オーストリアがネーデルラントを支配した18世紀の後半、皇帝ヨーゼフ2世の命により取り払われた。

 城壁の城門は残っており、ホテルから一番近いところでは、中世の雰囲気を残す「鍛冶屋の門」がある。東の方には、「十字の門(クロイス門)」があり、その北側には風車も見られる。

 ブルージュで宿泊するツアーで、もし時間があれば、この辺りまで散歩してもいいだろう。遊歩道があるので、朝はジョギングしている人もいる。

 赤く塗られた道は自転車道なので、歩かないように注意が必要だ。この点は、ベルギーだけでなく、オランダでも同じだ。自転車が猛スピードで走るので非常に危ない。

 ベルギー北部のフランドル地方は、古くから毛織物産業が発展していた。

 13世紀のブルージュは、北欧のハンザ同盟やジェノバなどのイタリア諸都市から訪れた商人で賑わい、街には彼らの商館が建ち並んで、金融や貿易の一大拠点として栄えた。

 主要な交易品はフランドルの毛織物で、商品をボートに積んで運河を下り、北海に面したズウィン湾の港で大型船へ積み替えていた。そして、外国船から降ろした輸入品をボートに積んで、街中の市場へと運んだ。織物以外にも、ロシアの毛皮や琥珀、スペインのワイン、北欧の木材や魚類、オリエントと交易のあるヴェネチアからは香辛料なども運ばれた。

 長い間、北海交易で繁栄したブルージュの街も、運河と港であるズウィン湾が北海から運ばれた土砂で埋まっていき、船の航行が困難になっていった。15世紀になると、商人たちはアントワープに移動してしまい、ブルージュは衰退した。

 19世紀にフランドル出身の作家ローデンバックが、「死都ブルージュ」という本を発行。当時のイギリス人やフランス人の間で旅行がブームとなったころだった。

 ナポレオンが戦争で敗北したベルギーのワーテルローを訪れるついでにブルージュに立ち寄るようになり、観光の街としてスタートした。

 街はすっかり寂れてしまっていたが、そのおかげで中世の街並みがそのまま残されていたのだ。

 19世紀には、北海へつながる運河がつくり直され、美しい水の都として、再び、人々を惹きつける街になっていった。

マルクト広場

 ブルージュの中心広場であるマルクト広場に到着した。

 街の散策をしながらブルク広場を通って来たが、聖母教会からでも歩いて5分くらいである。

 「ここがマルクト広場です。中央に立っている銅像は、ヤン・ブレーデルとピーター・ド・コニングの2人で、1302年にブルージュで発生した市民蜂起のリーダーでした。14世紀の初めは、フランドルはとても裕福でした。しかし、フランスから爵位をもらっている立場だったので、一部の大商人は、フランスにぺこぺこしていました。市民たちはフランス相手に戦いました。そのときのリーダーがこの2人であり、英雄とされています。肉屋さんと毛織物職人でした」

 広場に面して建っている塔は、鐘楼で、13世紀に建てられた。14世紀になってから、四角の小さな塔が付け加えられ、一番上の八角形の塔は15世紀末に付け加えられた。

 「今日は午後からフリータイムなので、健脚な人はぜひ塔に上ってください。景色がいいですよ。入り口は門をくぐった中庭にあります。人が並んでいるかもしれません。エレペーターはありません。螺旋階段が366段ありますので頑張ってください」

 鐘楼の周辺には、ギルドハウスが並び、その中の「クラーネンブルク・ハウス」と呼ばれる、小さな塔のついた建物は、マクシミリアンが幽閉されていた建物である。州庁舎は19世紀に建てられたネオ・ゴシック様式で、右側は郵便局となっている。

 マルクト広場の近くにあるレースの店では、ボビンレースの実演を見せてくれるところもある。ペルギーのボビンレースについては、後で詳しく説明する。
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