スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
桜花賞トライアルの第11回ユングフラウ賞。
内目から出ていこうとしたスティールティアラを制する形でポッドギルがハナへ。外から追い上げてきたビービーガナールが2番手。3番手にシントーアサヒ,4番手にトーセンガーネットとなり,控えたスティールティアラはゼットパッションと並んでの5番手。6番手以下はサブノダンサー,ホウショウレイル,マルパソ,トーセンターコイズの順でここまでは集団。やや離れてマーチャンスルー,また少し離れた最後尾にラブミーピンクという隊列。最初の600mは36秒5のハイペース。
3コーナーを回ると2番手のビービーガナールは苦しくなり,シントーアサヒが2番手で,捲ってきたトーセンガーネットが3番手。ゼットパッション,ホウショウレイル,マルパソもその後ろを捲り上げ,内を回ってきたのがスティールティアラとマーチャンスルー。直線に入るとシントーアサヒが脱落し,優勝争いは逃げたポッドギルと捲ったトーセンガーネットの2頭。トーセンガーネットが追い詰めていきましたが届かず,逃げ切ったポッドギルが優勝。トーセンガーネットはクビ差の2着。内から2頭目を追い上げたマーチャンスルーが4馬身差の3着に届き,フィニッシュ直前で差されたシントーアサヒがクビ差の4着。
優勝したポッドギルはこれが新馬戦以来の2勝目。2戦目は4着でしたがそれ以降の3戦はいずれも2着と,堅実な成績を収めていました。このレースは有力馬に逃げて好成績をマークしていた馬が多く,先行争いが激しくなるのではないかと思っていたのですが,意外なほど楽にポッドギルが逃げることになりました。この馬は4着だった2戦目が1400mだったほかはいずれも1200mのレースに出走していて,発馬後のダッシュ力はほかと差があったようです。現状の成績からは距離の延長はマイナス要因と思われますが,桜花賞は特殊コースですから,内枠を引いて逃げることができればチャンスはあるでしょう。父はフリオーソ。ビューチフルドリーマー系ハヤノボリの分枝。
騎乗した大井の矢野貴之騎手はロジータ記念以来の南関東重賞18勝目。ユングフラウ賞は初勝利。管理している大井の鈴木啓之調教師は南関東重賞3勝目でユングフラウ賞は初勝利。
この週に妹をグループホームで過ごさせることにしたのは,この31日が日帰り旅行に該当していたからでした。妹がグループホームに入所し,現在の通所施設で作業をするようになってからは2度目の日帰り旅行でした。最初のときは事情が分かっていなかったので迎えに行ったのです。ただ,日帰り旅行はグループホームから観光バスで出発し,同じバスでグループホームに戻るという旅程になっていますので,迎えに行く場合にもいつもの通所施設ではなくグループホームに行く必要があります。前回はそうしたのですからできないわけではないのですが,僕が通所施設の方へ送り迎えしているのは,場所からすればそちらの方が便利だからです。また,旅行を終えた後の妹は疲れていますから,その後でさらに家まで帰るとなると余計に疲労が増してしまいます。こうした事情を勘案し,旅行後にはグループホームでゆっくりした方がいいだろうと思いましたので,この週末はグループホームで過ごすように,7月の時点で決定しておいたのです。
この日の旅行の行先は小田原にある生命の星・地球博物館でした。ここを見学して妹が面白かったかどうかは分かりません。館内で昼食ということでしたから,そちらの方が楽しかったのではないでしょうか。また,帰りに海老名サービスエリアでおやつタイムというのがありましたので,妹にとってこの旅行のメインはそちらであったかもしれません。
9月6日,木曜日。この日に妹を通所施設に迎えに行きました。妹は旅行のお土産を買ってきていました。たぶん海老名サービスエリアで購入したものではないかと思います。お土産は僕に対してとピアノの先生に対しての,同じものがふたつでした。僕に対してといってもこれはお菓子で,僕は食餌療法の関係でほとんど食べることはできませんから,実際には妹が自分で食べるものといった方が正確です。
帰宅後,午後5時半に導師が来訪し,読経しました。
9月7日,金曜日。木曜日に妹を迎えに行ったのは,この日が本牧脳神経外科の通院の日だったからです。予約時間はいつもと同じで午後3時でした。この日は診察だけでなく,採血もありました。
別府競輪場で行なわれた昨日の第34回全日本選抜競輪の決勝。並びは吉沢‐武田の茨城に佐藤,松浦‐香川‐小倉の中国四国で和田と吉田と中川は単騎。
武田がスタートを取って吉沢の前受け。4番手に中川,5番手に松浦,8番手に和田,最後尾に吉田で周回。残り3周のバックの手前から松浦が上昇。残り2周のホームで吉沢が引いて松浦が誘導の後ろに。さらにこのラインを追っていた吉田が松浦を叩いて誘導を退避させました。後方になった和田が単騎で追い上げると,吉沢がそれを追い掛ける形から仕掛けて打鐘で先頭に。このラインを追走していた中川が和田の外の4番手で併走となり,ホームに入るとかましていって先行。吉沢はタイミングを合わせられず,やや車間の開いた2番手で第二先行のような形。バックから仕掛けた松浦は勢いが足りませんでした。直線は最終コーナーでインを突いた佐藤が中川と吉沢の間から中川を追いましたが届かず,逃げ切った中川の優勝。佐藤が半車輪差で2着。吉沢が半車身差で3着。
優勝した熊本の中川誠一郎選手は前回出走の防府のFⅠから連続優勝。グレードレースは昨年10月の熊本記念以来でビッグは2016年の日本選手権以来の2勝目。このレースは最近のGⅠとしてはややレベルが低いメンバー構成に。脚力は上位と思える中川か,吉沢をフルに利した場合の武田のふたりが優勝候補とみていました。その点で中川の優勝は予想の範疇だったのですが,その場合は後方からの捲りだと思っていたので,かましとはいえ逃げ切りは意外でした。このメンバーなら逃げ切ることができるくらい力量の差があったということでしょう。打鐘前後の和田の動きと,先頭に立った後の吉沢のペース配分が,中川の力を誘発してしまったという印象です。
帰途に薬局に寄りました。この日はインスリンも注射針も揃っていました。

8月22日,水曜日。午前中にみなと赤十字病院から電話がありました。緩和病棟の母の入院費は,7月分は支払ってありましたが,8月分はまだ支払ってありませんでした。これは母が入院中に死んでしまったので,その日までの分の請求書が作成されていなかったからでした。この電話はそれが完成したので,精算が可能になったということの連絡でした。
8月23日,木曜日。13日の朝に眼鏡の鼻あての部分のネジが外れてしまったのですが,この日の午後に眼鏡屋に行って直してもらいました。なので予備の眼鏡を使用したのはこの日まででした。
8月24日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。そして午後5時半に導師が来訪しました。これは週1回の読経のためです。2回目で,基本的に祭壇ではなく仏壇に向って拝むということが分かっていましたので,そのように準備をしておきました。
8月25日,土曜日。ピアノの先生から電話がありました。翌日にピアノのレッスンが予定されていて,その開始時刻を伝えるための連絡です。僕の方からは母が死んだことを伝え,祭壇があるので焼香してほしいということをお願いしました。
8月26日,日曜日。ピアノのレッスンでした。先生にはレッスンの前に焼香をしてもらいました。レッスンの開始時刻は午後3時でした。
8月27日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
8月28日,火曜日。みなと赤十字病院に行き,母の8月分の入院費の支払いをしました。ついででしたから注射針の処理もしました。
8月30日,木曜日。午後3時に導師が来訪しました。前週は妹を迎えに行った後でしたから,妹も在宅していたのですが,この日は僕ひとりだけでした。母の四十九日,これは納骨を兼ねたものですが,その日取りを仮押さえしました。ただし正式に決定したものではないので,まだだれにも伝えることはしませんでした。
8月31日,金曜日。O眼科に網膜症の検査に行きました。異常はありませんでした。この週は妹はグループホームで過ごすことになっていました。
第46回佐賀記念。ヒラボクラターシュは騎乗を予定していた福永祐一騎手が土曜日に中止となった東京競馬の代替開催に騎乗したため山本聡哉騎手に変更。
キクノソルは立ち上がってしまい4馬身の不利。スーパーノヴァはダッシュが鈍く3馬身の不利。先手を奪ったのはテーオーエナジーで1周目の正面では3馬身くらいのリード。2番手にはリーゼントロック。また2馬身差で3番手はヒラボクラターシュ。また3馬身差の4番手をエイシンニシパとグレイトパールで併走。その後ろにアスカノロマンとメイショウスミトモが併走。あとは6馬身ほど離れてカガノカリスマとスーパージェット。キクノソルはこの直後まで追い上げ,スーパーノヴァは大きく離されました。ミドルペース。
向正面で前3頭の差はそれぞれ1馬身ほどに縮まり,3頭で4番手以下を大きく離していく形に。ヒラボクラターシュの進出に合わせてリーゼントロックも動き,3頭が並んで3コーナーに入るとテーオーエナジーは脱落。優勝争いは2頭に絞られましたが,外から競り落としたヒラボクラターシュが優勝。リーゼントロックがクビ差で2着。テーオーエナジーは一杯になりながらも8馬身差で3着は確保。
優勝したヒラボクラターシュは重賞初制覇。とはいえ3歳のときに古馬相手のオープンで2勝している4歳馬ですから,重賞を勝つ実績は十分に備えていました。テーオーエナジーはオープンを連勝中の4歳馬で,重賞も勝っているのでそちらが上かとみていましたが,今日のレースからするとテーオーエナジーには距離が長いようです。そのために斤量面で最も恵まれたといえるヒラボクラターシュにチャンスが回ってきたという形でしょう。2着馬は重賞レベルではぎりぎりという馬で,それより1キロ軽くてクビ差というのは,今後に向けてはやや不安も残す勝ち方だったかもしれません。父はキンシャサノキセキ。ひとつ上の半兄は2016年の平和賞に勝っている現役のスカイサーベル。la Tacheはフランス語で努力。
騎乗した佐賀で短期免許を取得している山本聡哉騎手はデビューから13年10ヶ月で重賞初勝利。管理している大久保龍志調教師は佐賀記念初勝利。
哲学的考察も交えながら,僕が早すぎる母の死を,スピノザ主義者としてどう認識しているのかはこれで説明し終えました。ここからまた日記に戻ることにします。
母が不在となってから,僕の通常の日常生活が開始されたのは昨年の8月20日でした。この日に妹を通所施設に送ったことはすでに記した通りです。
同時にこの日は内分泌科の通院の日でした。これは当然ながら前回,2018年7月の通院の日に確定していた日程でした。ただ,母の病状が病状でしたから,場合によってはこの日に行かれなくなる可能性もあったのです。診察自体は大したことをするわけではありませんから,別に日が延びても構いません。ただ処方されたインスリンや注射針については,あまり先延ばしにすると足りなくなってしまうというおそれがありますので,できれば事前の予約通りに通院したいという気持ちが僕にあったのは事実です。結果的に母は僕の通院日と通院日の間に死に,かつ通夜や葬儀といった一連の儀式もこの間に済ませることができました。この意味でも母は僕があまり困らないように死んでくれたということになります。

この日は午後2時ごろに病院に到着しました。中央検査室には順番を待っている患者がいませんでしたので,先に採血をしてから採尿をしました。使用済みの注射針はまだ箱が一杯になっていませんでしたので,この日は持参しませんでした。
診察の予約は午後2時半で,僕が内分泌科の受付に向ったのは午後2時20分です。ただし診察が開始になったのは午後3時少し前でした。
HbA1cは6.9%と,前回より著しく良化していました。これはやはり気温の上昇の影響だったと思います。夏に血糖値を統御しやすいのは例年のことですが,昨年の夏はとくに暑かったことも影響していたでしょう。ただ主治医からは,血糖値は100以上はあった方がよいと言われました。実際には計測した値よりも低いというケースがあるからで,2桁だと低血糖を発生しているおそれは拭いきれないからだという説明でした。なのでそのように調整して注射をするように指示されました。この日はほかに異常はありませんでした。
関根名人記念館で指された第45期女流名人戦五番勝負第一局。
伊藤沙恵女流二段の先手で里見香奈女流名人の角交換向飛車。後手が意表の仕掛けを敢行しました。

ここは☖9四歩と受けるのが穏当な局面。しかし☖4五歩といきなり仕掛けました。角を交換した後の折衝で後手の歩が4四に伸びているのですが,その先手の指し方を咎めてやろうという意図があったのだと思います。
☗4五同歩に☖4二飛と回りました。先手は☗2四歩と攻め合いに。こうなれば☖4五桂☗2三歩成☖5七桂成☗同金☖4九飛成と互いに引くことはできないでしょう。

さすがにこの強襲は無理ではないかと思っていました。ただ,僕は基本は居飛車党ですから,振飛車の攻めが無理に見えやすいということはあるかもしれません。
先手がさらに☗3三とと寄ったので,後手は攻めを続けるほかなくなりました。
☖3九角と打ち☗5八飛の一手に☖5五歩。先手は☗6七銀と引きました。開いた4筋を攻めるべく☖4六歩と垂らしたのに対して先手は☗3六角。

ここで☖4八角成としていますがこの攻めでは迫力に欠けます。第3図で思わしい手がないようなので,やはり第1図からの仕掛けは無理だったということになるのではないでしょうか。
伊藤二段が勝って1勝2敗。第四局は18日です。
レジで並んでいるときに前の客がもたつくことによって時間を多く要してしまうことは,確かに悲しみtristitiaの要因となり得ます。僕たちは一般的にはこのような状況のときにイライラするという語で自身の感情affectusを表現しますが,このイライラは悲しみの一種であるとみてよいでしょう。とくにこのイライラは,もたついている客という原因causaの観念ideaを伴っていますから,第三部諸感情の定義七により,その客に対する憎しみodiumであるとみなしてよいと僕は考えます。
ですが,かつて長く並ぶことによって喜びlaetitiaを経験した人間は,次に同じ体験をしたとき,その喜びを想起することができます。これは第二部定理一八から明らかだといえます。よって現在のイライラを過去の喜びに結び付けることによって,今度は未来の喜びを想像することも可能になるでしょう。かくしてこの人間は現在のイライラしている状況が,もしかしたら未来の喜びの原因になるかもしれないと認識するcognoscereことになり,このイライラから解消されることになるでしょう。もちろん未来の喜びは確実なものではありませんが,表象imaginatioは現実的に存在しないものを現実的に存在すると観想するcontemplariことを含むのですから,このような方法でイライラを解消することができるということは間違いありません。
そしてこのような方法で悲しみを解消することもまた有益なのです。端的にいうと,すでに起きてしまったこと,すなわち過去については変えようがありませんから,その中に喜びを見出すということが人生の処方箋になり得たのでした。これと同様に,これから発生することすなわち未来のことについては分からないので,現在の悲しみによって未来に喜びの発生を見出すことも,人生の処方箋たり得るのです。
第四部定理九が示すように,現在の感情は過去や未来と関連した感情よりも強力であり,かつ第四部定理七によりある感情を抑制するのはそれよりも強力な感情なので,ここに示した処方箋というのはいうほど容易いことではありません。ですがこうした訓練をしていくことも大切です。これはまさに訓練であり,悲しみを受ける自然の秩序ordo naturaeの様式を,喜びと結び付いた様式へと移行させることなのです。
僕が立てたい問題に見合うような形でチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausとスピノザのやり取りを再構成した部分までは,スピノザは肯定します。チルンハウスは否定する部分もあるのですが,それはチルンハウスが問題にしたかった部分そのものと関係するのであり,僕が示した論理構成そのものには納得する筈です。スピノザとチルンハウスの分岐点はこの先にあります。

第二部定理七でスピノザは,観念ideaと観念されたものideatumは秩序ordoと連結connexioが同一であるといっています。このことは一般的に妥当しなければなりません。すなわち,すでにみたように,神Deusの無限知性intellectus infinitusのうちには,僕たちには認識するcognoscereことができない観念があるということをスピノザは認めなければならないのですが,その観念についてもこの定理Propositioは妥当しなければならないのです。このことはスピノザがこの定理の論証Demonstratioを第一部公理四にのみ委ねているということから明白でなければなりません。この公理Axiomaこそ,第一部定義六に示される無限に多くの属性infinitis attributisのすべてにおいて成立しなければならない筈だからです。
実際にスピノザはこれを認めています。第二部定理七備考では次のようにいっているからです。
「我々が自然を延長の属性のもとで考えようと,あるいは思惟の属性のもとで考えようと,あるいは他の何らかの属性のもとで考えようと,我々は同一の秩序を,すなわち諸原因の同一の連結を,言いかえれば同一物の相互的継起を,見いだすであろう」。
つまりスピノザは,思惟の属性Cogitationis attributumの下での原因causaと結果effectusの連結と秩序は,延長の属性Extensionis attributumの下での原因と結果の連結と秩序に同一であるということだけを認めているわけではなく,それ以外の属性の下でも原因と結果の連結と秩序は同一であるということを認めています。チルンハウスはしかし,スピノザがそこでいいたかったことを,さらに広げて解釈するのです。ただし,僕はチルンハウスの解釈にも妥当性があるということは認めます。
たとえそれが悲しい出来事であったとしても,そこに何らかの喜びlaetitiaを発見するようにすることは,そのこと自体と別に,さらに人生にとって有益な事柄を生じさせる契機となり得ます。過去に生じた悲しみtristitiaを現在の喜びに結び付けることを習性としていくと,今度は現在の悲しみを未来の喜びに結び付けることができるようになってくるからです。
たとえばとても寒くて冷たい雨が降る日に,バスに乗ってスーパーに買い物に出掛けたとします。必要なものを籠に入れレジに並びました。するとレジで並んでいた前の客が支払いに手間取り,とても時間を要してしまいました。ようやく自分の順番になったので自分の支払いを終え,買ったものを詰めて帰りのバス停に行くと,すぐにバスが来て乗車することができました。
ここにはひとつの悲しみとひとつの喜びがあります。というか,人が悲しみを感じ得る要因と喜びを感じ得る要因がひとつずつあります。悲しみの要因は不必要にレジで待たなければならなかったことであり,喜びの要因は停留所に着いたらすぐにバスが来たことです。しかるにこのふたつは結び付けることができます。すなわち,もし前の人がスムーズに支払いを終えていれば,バス停に到着するのはもっと早くになったでしょうから,そこでバスを待たなければならなかった筈だからです。すると,仮定によればこの日はとても寒くて冷たい雨が降っていたのですから,その待ち時間はとても辛いものになったでしょう。スーパーの中は暖房が効いて暖かいですから,レジで並んでいる方がずっとよかったことになります。よってこれは全体を通すと,前の人が支払いに時間をかけてくれたので,暖かい場所に長くいることができ,寒い場所でバスを長く待たずに済んだということになるのです。これで悲しみを感じる要因は喜びを感じる要因に結び付けられ,かつその原因causaとして認識されることになりますから,実質的に悲しみの要因は消滅しているといえるでしょう。
これは過去の悲しみを現在の喜びと関連付けている例です。ですがスーパーに買い物に行くのが日常なら,今度は現在の悲しみを未来の喜びに関連付けられるかもしれません。
一昨日,昨日と大田原市で指された第68期王将戦七番勝負第三局。
渡辺明棋王の先手で久保利明王将のごきげん中飛車。①-Aから4筋で銀が向い合う形。左の銀も前線に繰り出した先手が急戦に持ち込み桂交換。その後で端にも手をつけて銀交換という展開。

☖6三歩と打たれて6四の飛車が引いた局面。先手としては主導権を握り続けている分まずまずで,ここまで大活躍してきた飛車が今後も使えるかが懸案事項。
ここで後手は☖8四歩と突きました。これは☗9四歩☖同香☗8六桂の攻めに☖8三銀打と受けるための手。
先手が☗9三歩と端攻めの手筋を出したところで後手は☖5六歩と反撃に転じました。
先手は☗同歩☖同飛としてから☗9四桂を敢行。放置しておくと5七の地点に殺到されてしまうこともありますが,飛車が5一にいると後に受けに利いてくる可能性があるので,飛車の位置を変えたのはいい判断だったろうと思います。
仕方がない☖9四同銀に☗9五香と走り☖同銀のときに一旦は☗5七歩と受け☖2六飛に☗9五飛。これで飛車を使う目途が立ちました。

この展開でみると第1図での☖8四歩は受けとして間に合っていなかった感じです。とはいえ第2図となって先手が攻めきれるのかといえばそうでもないとのこと。実戦はこの後で後手が難易度の高い受けを逃したため,先手が攻めきることに成功しました。
渡辺棋王が3連勝。第四局は24日と25日です。
僕が感じた安堵securitasについては,確かに不安metusの原因causaが解消された,希望spesが現実化したといえます。よってその時期は早かったかもしれませんが,僕は母の死によって安堵を感じることができました。いい換えれば第三部諸感情の定義一四により,ある喜びlaetitiaを感じることができたのです。
第三部諸感情の定義二にあるように喜びはより小なる完全性perfectioからより大なる完全性への移行transitioです。また,第三部諸感情の定義三にあるように,悲しみtristitiaはより大なる完全性からより小なる完全性への移行です。このために僕たちは,悲しみを感じるよりは喜びを感じる方がいいのです。一方,起きてしまった出来事は変えることができません。このために,起きてしまったことについては,それがどんなことであれ,そこに喜びを見出す方がよいのです。とりわけ,そのことについて悲しみを感じている場合ほどそうした方がいいのです。これは以前に詳しく説明しましたが,僕たちは一般的には過去に生じたある出来事によって悲しみを感じている場合,生じなかったことに対しては楽観的に認識しがちです。ですが,実際には生じなかったことが生じた場合には現に感じているよりもっと強い悲しみを感じることになった可能性は否定できないので,この楽観視は混乱した認識cognitioです。そしてこの混乱した認識が他人に対して向うとき,いい換えれば,その出来事をある他人が生じさせたとか,楽観視している生じなかった出来事をある他人が生じさせなかったと認識するcognoscere場合は,容易にその人を憎むことになるでしょう。これは憎しみodiumの連鎖を発生させるだけですから避けるべき事柄です。そしてこれを避けるために,起きてしまった出来事の中に喜びを見出すということは有益なのです。あえていいますが,たとえそれが混乱した認識であったとしてもやはり有益なのです。なぜなら同様にこの混乱した認識が他人に対して向うなら,この場合に生じるのは憎しみではなくて愛amorであるからです。
よってこういう方向で過去の出来事を解釈していくことは,スピノザ主義に適った方法である,人生の処方箋であると僕は考えます。だから僕は父や母の死についても,この方向での認識を目指すのです。
第1回雲取賞。
押していったヒカリオーソの外にサーブルグロワールが並ぶ形で発馬後の正面を通過。1コーナーからのコーナーワークで前に出たヒカリオーソの逃げになり,サーブルグロワールが2番手。2馬身差の3番手をマイコート,ラプラス,カジノフォンテンの3頭で併走し,直後にハルディネロ。7番手はアイオロスとサージュ。9番手がオーシャンブラック,10番手にメイレー,11番手にミューチャリーと続き,12番手はレオズハウライトとマムティキング。14番手がグラビテーションとアギトで最後尾は内にもたれ気味だったアトムズスピアー。2番手と3番手以外にはあまり間隔がない短い隊列。最初の800mは51秒3のミドルペース。
3コーナーでカジノフォンテンが単独の3番手に。ヒカリオーソ,サーブルグロワール,カジノフォンテンの雁行になりましたが,コーナーの途中でサーブルグロワールは後退してカジノフォンテンが単独の2番手。向正面で動いていたミューチャリーは大外を捲るように上昇。直線はこの3頭の争いになりましたが,楽なラップで逃げていたヒカリオーソにはまだ余裕があり,直線の半ばからは突き放すような形で優勝。外を回ったミューチャリーが2馬身差の2着に届き,最後は苦しくなったカジノフォンテンは1馬身4分の1差で3着。
優勝したヒカリオーソは平和賞以来の南関東重賞2勝目。その前の鎌倉記念では今日の2着馬に10馬身以上の差をつけられていたのですが,平和賞と同様に逃げの手に出ることによって差を詰める,というか逆転というところまでいきました。ただ,先行有利の馬場状態で,楽なラップで,3番手以降を少し離すような逃げを打てたという展開面の利が大きかったのは事実ですし,2着馬は逆に厳しいレース内容でしたから,能力そのものが2着馬を逆転したとみるのは早計かもしれません。父はフリオーソ。母の父はサウスヴィグラス。母の7つ上の半姉に1995年に報知杯4歳牝馬特別を勝ったライデンリーダー。
騎乗した川崎の瀧川寿希也騎手は東京2歳優駿牝馬以来の南関東重賞5勝目。管理している川崎の岩本洋調教師は南関東重賞4勝目。
安堵securitasに関してはもう少し補足が必要とされます。

第三部諸感情の定義一四は,疑いdubitatioの原因causaが除去された観念ideaから生じる喜びlaetitiaが安堵であるといっています。僕の場合,母より先に死んでしまうのではないかという疑いは,母が先に死ぬことによって除去されました。つまり疑いの原因が除去された,いい換えれば不安metusは解消され希望spesが実現することによって安堵を感じたのです。これは確かに疑いの原因が除去されたといえるでしょう。
しかし,定義Definitioからして安堵はこういう場合,すなわち確かに疑いの原因が除去されることによって生じる感情affectusとは限りません。ある人間が何らかの希望と不安を抱いていて,その希望と不安を抱いている原因が除去され,不安は解消され希望が現実化すると認識しさえすれば,安堵が発生することになるからです。つまり実際は原因が除去されていなくとも,除去されたと認識されれば安堵は発生するのであって,実際に原因が除去されているか否かということと,安堵が発生するか否かということは別なのです。僕の場合はたまたまそれが同じであっただけだといっていいでしょう。
たとえば隣国からの不法移民の流入によって国内の雇用の悪化が生じているのではないかという不安,他面からいえば,不法移民の流入を阻止すれば国内の雇用状況が改善されるだろうという希望をある国家の指導者が抱いていたとしましょう。そこで移民の流入を防止するために,隣国との国境に,人間が通ることができない分厚い壁を建設したとします。この壁の建設によって,抱いていた不安は解消され,希望が現実化するだろうとこの指導者が認識すれば,この指導者は安堵を感じるでしょう。これは安堵の定義に合致しているからです。ですがこの壁が建設されたからといって本当に国内の雇用状況が改善されるとは限りません。実際に雇用状況を悪化させている原因は,不法移民の流入によって生じているとは限らないからです。そして実際にほかの原因が雇用の悪化を齎しているなら,安堵は感じても疑いの原因が除去されたことにはなりません。ただそのように誤って認識されたというだけのことです。安堵にはこういう場合もあるのです。
第63回金盃。ミヤジマッキーが感冒で出走取消となり15頭。
好発のワークアンドラブを外から抜いてシュテルングランツがハナへ。2番手はヤマノファイトとユーロビート。4番手がガヤルド。5番手がワークアンドラブとスギノグローアップでこの6頭が先行集団。3馬身開いてレッドソロモン,カンムル。この後ろは7馬身ほどあってモズライジンとクラージュドールで併走。3馬身差でウマノジョー,サウンドトゥルー,ペイシャゴンジセとエンパイアペガサス。4馬身差の最後尾にキスミープリンスという縦長の隊列。最初の1000mは62秒7のハイペース。
1周目の正面から向正面にかけてはユーロビートが単独の2番手。向正面に入るとスギノグローアップが外から2番手に。3コーナーでユーロビートが後退し始め,3番手はヤマノファイト。スギノグローアップはコーナーを回って一杯になり,ヤマノファイトが2番手に上がり,内から外に出てサウンドトゥルーが追い上げ開始。直線は逃げるシュテルングランツ,間のヤマノファイト,外のサウンドトゥルーの競り合い。ここからヤマノファイトが脱落して優勝争いは2頭。最後は外のサウンドトゥルーが差して優勝。シュテルングランツが半馬身差で2着。一杯になったヤマノファイトを差したワークアンドラブが1馬身4分の1差で3着。ヤマノファイトは4分の3馬身差で4着。

優勝したサウンドトゥルーは一昨年のJBCクラシック以来の勝利。南関東重賞はここが初出走で初勝利。昨年のJBCクラシックまで中央で走り,南関東に転入。転入初戦の東京大賞典でも4着でしたから,南関東重賞では明らかに能力上位。ただ僕はこの距離が向くとは思いませんでしたし,大井の長距離だと特異に走る馬というのが存在するので,足をすくわれてしまうケースもあり得ると思っていました。最後は力でねじ伏せる形になりましたが,2着馬と接戦になったのは,2着馬が大井の長距離を得意にする馬だったからでしょう。中距離の方がよいと思いますが,南関東重賞ならまだいくらでも勝てる能力が残っています。母の父はフジキセキ。2つ下の全弟に昨年の佐賀記念を勝っている現役のルールソヴァール。
騎乗した大井の御神本訓史騎手は船橋記念以来の南関東重賞33勝目。第59回以来4年ぶりの金盃2勝目。管理している船橋の佐藤裕太調教師は南関東重賞7勝目。金盃は初勝利。
僕が母を見送ることができたときに感じた感情affectusが,第三部諸感情の定義一四の安堵securitasという喜びlaetitiaに該当することを詳しく説明しておきましょう。
僕は小学生のときに,母は,最大の親不孝は親より先に死ぬことであると思っていると知りました。それを知ってから,そのことばが僕の胸に強く焼き付いていたというのは,僕は母が言うところの最大の親不孝者にはなりたくない,つまり母が死ぬまでは生きていたいと思い続けていたという意味です。ただしこれは感情としてみれば,欲望cupiditasというべきで,安堵が発生するために先行している必要があると僕が考えている希望spesや不安metusではありません。
ただし,この欲望が不安と共に継続している,というか不安と共に継続せざるを得ないということは,おそらくだれにでも理解できるところと思います。母が死ぬときに僕が生きているということは確実なことではなく,母より先に僕が死んでしまうということがあり得るということは,だれにでも理解できる筈だからです。つまり一般的にいうなら,確実ではない事柄について欲望する場合,それを欲望する人間は,その欲望を充足させることができないのではないかという不安を同時に抱くことになるのです。ところが第三部定理五〇備考でスピノザがいっているように,希望のない不安というのは存在し得ません。ですから不安を感じていた僕は,同時に希望も抱いていたことになります。これは前述した一般論に照合させれば,欲望を満足させることができないのではないかという不安は,欲望を満足させられるであろうという希望と共にでなければ存在することができないという意味になります。つまり僕は,母が死ぬまで生きていることができるであろうという希望と,生きていることができないかもしれないという不安を同時に抱えつつ,母が死ぬまで生きていたいという欲望を有していたということになるのです。
実際に母が死ぬことによって,この欲望は充足することになりました。他面からいえばそれは,希望が現実のものとなり,不安が解消されたということです。よって僕がそれによって感じることができたのは安堵という喜びであったことになるのです。
誤解③で示したように,僕はチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがスピノザの哲学でいう共通点という語の特殊な意味を誤解していたとは考えにくいと思っています。しかし,チルンハウスが何も誤解をしていなかったということはそれ以上にあり得ません。というより,何らかの誤解があったのは確実であると考えなければならないでしょう。そうでなければ誤解①で示したⅠの部分には誤りがあるという誤解②の僕の説明が成立しなくなってしまうからです。この僕の説明は正しい筈ですから,共通点について誤解したというのでなければ何かほかに誤解があったといわなければならず,それを特定する責任が僕にはあることになります。

僕の考えでいえば,チルンハウスはおそらく無限知性intellectus infinitusについて誤解を犯していたのです。チルンハウスは神Deusの知性,すなわち無限知性と人間の知性には共通点はないといっていたのでした。そしてたぶん,共通点がないものは実在的に区別されなければならないということをチルンハウスは理解していたと僕は想定します。共通点について誤解していなかったということは,このことも意味しなければならないからです。してみるとチルンハウスは,無限知性すなわち神の知性と人間の知性との間の区別distinguereは,実在的区別であると解していたことになるでしょう。
実際にはこの区別は様態的区別です。なぜなら神の知性も人間の知性も同じように思惟の様態cogitandi modiですから,それらは実在的には区別され得ず,様態的にのみ区別することが可能であるからです。このとき,僕はチルンハウスは,人間の知性は思惟の様態であるということは認めていましたが,神の知性が思惟の様態であるということは認めていなかったと考えるのです。そしておそらくチルンハウスは,神の知性は思惟の様態ではなく,思惟の属性Cogitationis attributumそのものであると解していたと考えるのです。
思惟の属性と思惟の様態の区別は実在的区別であるという考え方は,スピノザの哲学の中でも否定することはできません。
このときに母が僕に対して言ったことは,一般論としていうなら暴論であったと思います。この話の契機となった自殺をしてしまうのは論外でしょうが,止むを得ない事情で親より先に死んでしまう子どもというのはいくらでもいるであろうからです。ただ母が,最大の親不孝は親より先に死んでしまうことであると思っているということは小学生の僕にも理解できました。そしてこのことはこれ以降,ずっと僕の胸に焼き付いていたのです。もちろんこれは僕にだけ強く印象に残ったのであって,もしかしたら母はこのようなことを僕に言ったことを忘れてしまっていたかもしれません。
僕は社会的成功という観点からは早期の段階でドロップアウトしました。ですから会社で出世をするとか,社会的な名誉を獲得する,あるいは大金を稼ぐといったことは一切ありませんでした。結婚することもありませんでしたし,孫の顔を見せることもありませんでした。社会一般からみれば僕は実に親不孝な子どもであったことになるでしょう。けれどもこうして妹と一緒に母を見送ることができて,母が思うところの最大の親不孝者にはならなくすんだという気持ちにはなることができました。僕もⅠ型糖尿病で,おそらく平均寿命ほどには長く生きることはできないと思います。それがいつになるのかは分からないにしても,とりあえず母を見送ることができたのは,僕にとってもそうですし,たぶん母にとってもよかったのだろうと思うのです。
このような僕の気持ちは,『エチカ』では安堵securitasといわれ,第三部諸感情の定義一四に示されています。
「安堵とは疑いの原因が除去された未来あるいは過去の物の観念から生ずる喜びである」。
スピノザはこの感情affectusはある事物の出現に対する疑念dubitatioが晴れることによって,希望spesから生じる喜びlaetitiaであるといっています。ですが僕の考えではこの説明は不十分です。というのも希望と不安metusは表裏一体の感情だとスピノザはみているのですから,希望から生じるというのは不安から生じるというのと同じだからです。したがって,希望が実現する喜びが安堵であるように,不安が解消される喜びもまた安堵だというのが適切でしょう。
先週の川崎記念を勝ったミツバは3代母がカナダ産のコマーズという馬で,彼女が基礎輸入繁殖牝馬になります。ただ,コマーズの母でやはりカナダ産のミドルマーチも別ルートで輸入され,日本で繁殖生活を送りました。2頭とも日本での初産駒を誕生させたのは1991年でした。ミドルマーチの8つ上の半兄のナイスダンサー,7つ上の半姉の産駒であるパークリージェントは共に種牡馬として輸入され,重賞の勝ち馬が輩出したため,同じ一族が別ルートで輸入されることになったのでしょう。リーガルローブと同じくファミリーナンバーは1-eです。

コマーズが1991年に日本で最初に出した産駒がゴールデンジャックです。1994年に報知杯4歳牝馬特別とサンスポ杯4歳牝馬特別に勝ちました。その6つ下の全弟はスターリングローズです。
コマーズは輸入前にカナダで1頭の牝馬を産んでいます。この馬も後に繁殖牝馬として輸入されました。最初に産んだ牝馬の産駒に2011年に武蔵野ステークスに勝ったナムラタイタンがいます。
繁殖牝馬となったゴールデンジャックの初産駒は2002年に京阪杯,2003年に京都金杯,2005年にはダイワメジャーを2着に降して関屋記念を勝ったサイドワインダーです。その3つ下の半妹がミツバの母になりました。
輸入されてまだ20年が経過していないのですが,とくにコマーズを祖とする系統はわりと牝馬が多かったため,分枝はかなり広がっています。まだこの一族から重賞の勝ち馬が輩出するという可能性は高いのではないでしょうか。
母は死の少し前から,声を出すことはできるけれどことばを発することはできなくなりました。そして最後は声を出すこともなくなり,死んでいきました。その母が僕に対して最後に発したことばは「お世話になりました」でした。
僕は始まりの日より後に,母が望んだことのすべてを叶えることができたと思っていません。母にも僕に対する不満がきっとあったろうと思っています。ですが最後にこのように言ってくれたということは,たとえ不満はあったにせよ,全体的には満足することができたのだろうと思うのです。そしてそれはまだ僕に,母に対してだけでなく妹に対しても対処するだけの体力が残っていたからです。もしもっと後に同じような状況になっていたとしたら,母はもっと大きな不満をもったかもしれません。そして僕も,母の希望に沿えない歯痒さを多く感じたかもしれません。それでみれば年齢的には早かったかもしれませんが,この段階でこうなったのはむしろよかったのではないかと思えるのです。母が死ぬということは悲しいことではありますが,これはいずれは訪れることです。もっと後にそれが訪れたら,母も僕ももっと大きな悲しみを感じたかもしれません。早かったから,むしろ悲しみが軽減されたかもしれないのです。
そしてもうひとつ,僕はかつての母との会話で,ひどく印象に残っているものがあります。
母は中学校の教諭をしていました。これはまだ僕が小学生のときだったのですが,その当時に母が勤務していた中学校の生徒,母の直接の教え子ではなかったのですが,その学校の生徒が,集団で飛び降り自殺をするということがありました。その一件を伝えるテレビのニュースを僕と母のふたりで視ていたのですが,そのときに母が,こういうことをどう思うかという主旨のことを急に僕に尋ねてきました。
僕はまだ小学生だったこともあり,何も答えることができませんでした。答えることができなかったというより,母の質問の意図を把握しかねたといった方が正しかったかもしれません。すると母は,親より先に死ぬほど親不孝なことはないのだから,このようなことをしてはいけないと言ったのです。
高松記念の決勝。並びは鈴木‐平原‐中村の東日本,太田‐小川‐渡部の四国,山崎‐園田‐中本の九州。
平原がスタートを取って鈴木の前受け。4番手に太田,7番手に山崎で周回。残り3周のバックの出口から山崎ラインが上昇を開始。鈴木は抵抗の素振りをみせましたが残り2周のホームの出口で山崎ラインが叩きました。後方になった太田ラインがバックから反撃開始。山崎が突っ張ろうとスピードアップ。ここで園田が離れてしまい,打鐘で太田が山崎に番手に。園田は太田の後ろに位置しましたが,小川がホームで太田の後ろをまた奪還しました。鈴木ラインもここから発進していきましたが,山崎を叩くには至らず。バックで内を開けた山崎のインから太田が発進。そのまま後ろに大きく差をつけ,直線に入るところではセーフティリードとなって優勝。バックの出口の手前から自力で発進した平原が2車身差で2着。山崎がすぐに内を閉めたため,太田を追うことができなかった小川は,山崎の後ろから平原にスイッチするような競走になり,1車身半差で3着。
優勝した徳島の太田竜馬選手は2走前の別府のFⅠ以来の優勝。昨年暮れのヤンググランプリを優勝していますが記念競輪は初優勝。太田は先行するのを嫌うような競走をすることがあるのですが,今日は後ろに同じ徳島の先輩がマークしていることもあってか山崎を早めに叩きにいきました。叩くことはできなかったのですが,園田が離れたため労せずして山崎の番手という絶好の位置を確保。外が渋滞になったためにイン捲りになりましたが,外からいっても勝ったのではないでしょうか。早めに叩きにいった意欲が優勝という結果を導き出したといえ,今後も今日のような競走を多くしていった方がよいのではないかと思います。
それでは母のことに移ります。
母は癌の発覚が父ほど進行していない段階でした。このために余命が限られた母との生活は,父との生活より長く続きました。そしてその間に僕は,それまで母に対してしたことがなかったことをいくつかすることができました。たとえば通院に付き添うとか,母のために食事の支度をするといったようなことです。こうした時間を僕に与えてくれたことについては,僕は母に対して感謝しています。
これは下の世話と同じことで,母は僕に対してはこうしたことをよくしてくれたのです。たとえば僕が子どものころに病気になれば,病院に連れて行ってくれたのは母でした。また,母は仕事をしていて,僕は祖母,父の母とも同居していましたから,いつもそうであったわけではないのですが,僕の食事の支度を最も多くしてくれたのが母であったことは間違いありません。回数という観点からいえば,僕が最後に母にすることができたのはたかが知れているのですが,それでも少しはその恩を返すことができたという気持ちをもつことができるようになっているのも事実です。そしてもしこの状況がもっと長く続いたとしたら,僕は疲れてしまったかもしれません。母は始まりの日から概ね1年後に死んだのですが,この1年という期間は,僕にとってちょうどよい長さだったかもしれないと思うのです。
さらにいうと,これは僕が46歳から47歳になる時期に該当しています。長男が母を亡くす時期としては早かったともいえるのでしょうが,僕はこのことについてもこれでよかったのかもしれないと思うことができるのです。
たとえば今から10年後に,今回と同じようなことが生じたとしましょう。そのときに余命が限られた母と,重度知的障害者の妹を抱えた僕が,同じように動くことができるとは限りません。当然ながら10年後の僕は今の僕より体力的に衰えているであろうからです。そのように考えれば,確かに早かったかもしれませんが,まだ僕の体力がそこまで落ちていない段階で母がこのような状況になってしまったことは,僕にとってもまた母にとっても,よかったのではないだろうかと思えなくないのです。
北國新聞会館で指された第44期棋王戦五番勝負第一局。対戦成績は渡辺明棋王が9勝,広瀬章人竜王が10勝。
振駒で広瀬竜王が先手となり相掛り。後手の渡辺棋王が先に飛車先を交換して浮き飛車。後から交換した先手が高飛車。その後,先手が手損の代償に一歩を掠め取る展開に。中盤までいい勝負だったように僕には思えました。

先手が歩を打って桂馬の交換を催促した場面。後手は☖4六歩☗5六銀としてから☖7七桂成☗同角と進め☖6四桂と攻めていきました。
先手は☗4四桂と反撃。後手は☖4三銀直と受けに回りました。
先手は☗5五銀☖同銀☗同角と銀を交換。後手はここも☖6三金と受けました。
そこで先手は☗3二桂成と金を取りました。これには☖同銀の一手。

ここで先手は☗4四歩と突きましたが,後の展開からみるとこの手は甘く,☖5四歩から角を取った後手が攻め合って勝てる局面に。したがって先手としては第2図では☗4三銀と打っていくほかなかったのでしょう。これは先手が勝ちとはいえないまでも,いい勝負だったような気がします。
渡辺棋王が先勝。第二局は10日です。
父は僕に対しても貴重な経験をさせてくれました。
母は始まりの日に癌であることを強く匂わされ,その後の精密検査で完治の見込みがない癌であることを医師から告げられました。父の場合はそうではなく,僕たちは知っていましたが,父には知らされていませんでした。ただ,肝機能の著しい低下によって抗癌剤を使用した治療を施せなくなってしまったので,その段階で余命を父に知らせる必要が生じました。その告知を僕がしたのです。
そのこと自体は面白いことではありませんでしたが,父に対して余命を告げるという経験は,だれにとってもできるというものではなく,貴重な経験であることは間違いありません。それが心理学でいうところの「父殺し」に該当するかどうか僕には分かりませんが,象徴的な意味でいえば文字通りの「父殺し」であるといえるのではないでしょうか。つまり父は最後に僕に対してそういう機会を与えてくれた上で,象徴的な意味でいえばそれから間もなくこの世を去ったのです。そのことの重みがいかほどのものであったかは,僕は今でもよく分かってはいないのですが,父に対して告知をした病室での出来事,とくに僕がすべてを話した後に父が言った「ありがとう」ということばは今でも胸に強く焼き付いています。僕にしても「ありがとう」と言われるようなことをしたことはほかにもありますから,そのことばをいわれた経験もあります。ただ,どの「ありがとう」が最も心に残っているかと問われれば,迷わずにこのときの父の「ありがとう」であると答えます。そしてそれはこれからも変わらないだろうと思います。
もう一点いうと,父は母と同じ大腸癌で先に旅立ちました。父の最期は僕も看取っています。このときの経験がありましたから,僕は母の死のときもその状況を冷静に見守ることができたのだろうと思うのです。父の血圧が低下したということで病院から連絡が入り,病床の父の呼吸はその間隔が徐々に長くなり,会わせて一つひとつの呼吸が荒くなっていき,最後はそれが途絶えました。母もほぼ同じだったのですが,父が先に人の死に方を教えてくれたので,僕は対処の仕方を知っていたのです。
書簡六十三,六十四,六十五,六十六のスピノザとチルンハウスとの文通に関しては,『個と無限』の第2章で詳細に検討されています。ただ僕はそこで佐藤が行なっているのとは異なった観点から問題を提起したいと思います。そこでまず,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが『エチカ』の草稿から何を主張し,それに対してスピノザがどのように答えているのかということを,僕の考察に見合うような形に再構成することにします。

スピノザは第一部定義六で,無限に多くの属性から成っている実体substantia constans infinitis attributisと神Deusを定義しています。そして第一部定理一一では,神が実在するといっています。つまり無限に多くの属性から成っている実体が存在すると主張しているのです。
一方でスピノザは,第二部公理五では,人間が認識するcognoscere個物res singularisは物体corpusであるか思惟の様態cogitandi modiであるかのどちらかであるといっています。物体は第二部定義一によって延長の属性Extensionis attributumの有限様態すなわち個物です。つまり人間が認識するのは延長の様態か思惟の様態のどちらかです。よって人間が認識することができる属性は,延長の属性と思惟の属性Cogitationis attributumのふたつです。しかし属性はこれらふたつだけではなく,無限に多くあるのでなければなりません。そうでなければ無限に多くの属性から成る実体は存在することができないからです。よって人間にとっては未知である,これはいまだ知らないという意味ではなく,絶対に知ることができない属性が無限に多くあるということになります。
次にスピノザは第二部定理七系で,神が思惟する力Dei cogitandi potentiaと神が働く力agendi potentiaは等しいといっています。よって,人間にとって未知の属性から生じる諸々の様態の観念ideaは,神の無限知性intellectus infinitusのうちに存在するのでなければなりません。そうでないと神の働く力に対して神の思惟する力が劣ってしまうからです。よって神の無限知性のうちには,人間が認識することができない観念が無限に多くあることになります。
ここまではチルンハウスはともかくスピノザは同意する筈です。
大人と幼児という関係は,自分自身とその子どもという関係に置き換えることもできます。子どもの幼少期は,自分とその子どもの関係は,大人と幼児の関係の一種であるからです。とくに僕の父と母の場合でいえば,両親,つまり僕の祖父母が共にあり,幼児期に両親に下の世話をされ,またトイレトレーニングを受けて育ちました。また父と母には僕と妹という子どもがあり,僕たちは両親に下の世話をされ,またトイレトレーニングを受けたのです。ですから母の父に対する関係が,母にとっては自分と夫というより,自分と子どもという関係に類するものとして感じられたとしても不思議ではありません。大人の幼児に対する愛というより,自分の子どもに対する愛を母は感じることができたかもしれません。
あくまでも象徴的な関係ですが,これでみれば分かるように,自分の幼児期に下の世話をしてくれた人,あるいはトイレトレーニングを施した人に対して,大人になってから下の世話をするということも,おそらく人間にとって特殊な意味をもつ行為となるでしょう。それは大人と幼児というかつての関係が,立場を逆転させて出現していることになるからです。
父は人工肛門の管理は原則的に自分で行っていたのであり,介助するとしても母が行っていましたし,最後の段階では看護師の仕事のひとつになりました。よって僕が手伝うことはありませんでした。母は父と同様に腸閉塞を起こす危険性がありましたが,父より時間の猶予がありましたから,癌を切除する手術をすることはでき,人工肛門を必要としませんでした。そして最終的に緩和病棟に入院した段階でも自分でトイレに行くことができました。最後は寝たきりになりましたが,その時点で食事を摂ることができなくなっていましたから排便はなく,尿に関してはカテーテルで対応しましたので,やはり僕がその種の世話をすることは一切ありませんでした。つまりこの意味で親子の立場を逆転させた関係は最後まで出現しなかったのです。とはいえ父や母がその介助を僕にしてほしいと思っていたかといえばたぶん答えはノーだったでしょう。なのでこれはこれでよかったのだと思っています。