スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

小鹿の雑感⑦&緩和病棟

2018-09-23 19:18:46 | NOAH
 小鹿の雑感⑥大熊元司が話題になった後,その中心はロッキー・羽田に移ります。
 僕のプロレスキャリアが始まったとき,羽田は中堅選手のひとりでした。俳優の津村鷹志さんに似ていたという印象が残っていますが,プロレスラーとしての印象はとくにありませんし,大成することはできませんでした。背が高かったのは馬場の好みであったと思うのですが,体質的なものか肉があまりつかず,ひょろっとした体形で,同じように上背があったジャンボ・鶴田の陰に隠れてしまう形になったといえるでしょう。鶴田は不世出といっていいくらいの名レスラーですから,同じ時代に同じ団体に所属することになった羽田にとっては不運だったと思います。
 グレート・小鹿によれば大相撲出身の羽田をプロレスにスカウトしたのは小鹿自身だったそうです。デビューは全日本プロレスではなく日本プロレスで,日本プロレスの崩壊によって全日本に移ってきた選手のひとりでした。天龍源一郎は小鹿は何かにつけて羽田のことを気に留めていて,日本プロレス出身者の絆は固いのだと感じていたそうです。ただ,小鹿のスカウトによって羽田がプロレスデビューをしたということは知らなかったようです。もし知っていたら,小鹿が羽田のことを気にかけるのは当然というように受け止めたかもしれませんので,天龍の日本プロレス出身者に対する見方も少し変わっていた可能性もあるかと思います。
 天龍と羽田は1977年9月に60分時間切れ引き分けという試合をしたことがあるそうです。天龍が海外武者修行から帰国して全日本で試合をするようになったのはこの年の5月からでした。僕のキャリア開始時点である1981年秋には天龍は馬場,鶴田に次ぐ三番手という評価がほぼ固まっていました。約4年前にはそういう状況であったわけですから,羽田もそれなりの期待をかけられていた選手だったのは間違いなさそうです。

 月曜の通院の帰りに薬局に寄ったとき,処方箋をFAXで送ってもらえれば薬を用意できるといわれていました。処方箋はすでに出ていましたので,院内の受付場所に行き,その処方箋を薬局にFAXで送ってもらいました。その後,院内の食堂で昼食を摂り,2時までは消化器内科の処置室で待機しました。
 緩和ケア病棟では医師と看護師による説明が行われました。この説明は病棟の概要で,どういう患者が入院することが可能であるかとか,入院中にどういった治療を施すかといったことなどです。緩和ケア病棟は末期における苦痛を排除するということだけを目的としています。したがって,まず余命が限られていなければ入院はできません。さらに,延命治療を受けている場合も同様になります。施術は苦痛の緩和ですから,それ以外の治療,要するに病気を治すための治療は行わないとのことでした。母は延命治療は断念していますので,入院する資格はありました。なのでゆくゆくは入院したいという希望を示す書類にサインをして,面談は終了となりました。この書類は,サインをしておけば入院したいときに必ず入院することができるというものではありませんが,優先順位は上位になるというものです。
 緩和ケア病棟は病院とは別施設という扱いですが,精算は同じでしたので,消化器内科の分と一緒に支払いをして帰りました。帰宅したのは2時55分でした。その後で薬局に行きましたが,事前にFAXをしておいたため,すべての薬剤を入手することができました。
 この日は利尿剤は出ていませんので,鎮痛剤だけです。オプソ内服液は5㎎のもので前回と同じでしたが,ワンデュロパッチは前回の0.84㎎というものから1.7㎎というものに変更になりました。これは貼付薬ですから,パッチ自体が少し大きくなったと理解してください。母はパッチを貼るようになってからも痛みを感じることがあったので大きくなったのですが,実際にはこの大きさでも十分ではなかったようです。
 前夜に来訪した叔父は,同窓会に出掛けました。母に会うのもありましたが,こちらが主目的ではあったようです。この日は友人宅に宿泊しました。
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