スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

玉藻杯争覇戦&母の場合

2019-02-03 19:08:25 | 競輪
 高松記念の決勝。並びは鈴木‐平原‐中村の東日本,太田‐小川‐渡部の四国,山崎‐園田‐中本の九州。
 平原がスタートを取って鈴木の前受け。4番手に太田,7番手に山崎で周回。残り3周のバックの出口から山崎ラインが上昇を開始。鈴木は抵抗の素振りをみせましたが残り2周のホームの出口で山崎ラインが叩きました。後方になった太田ラインがバックから反撃開始。山崎が突っ張ろうとスピードアップ。ここで園田が離れてしまい,打鐘で太田が山崎に番手に。園田は太田の後ろに位置しましたが,小川がホームで太田の後ろをまた奪還しました。鈴木ラインもここから発進していきましたが,山崎を叩くには至らず。バックで内を開けた山崎のインから太田が発進。そのまま後ろに大きく差をつけ,直線に入るところではセーフティリードとなって優勝。バックの出口の手前から自力で発進した平原が2車身差で2着。山崎がすぐに内を閉めたため,太田を追うことができなかった小川は,山崎の後ろから平原にスイッチするような競走になり,1車身半差で3着。
 優勝した徳島の太田竜馬選手は2走前の別府のFⅠ以来の優勝。昨年暮れのヤンググランプリを優勝していますが記念競輪は初優勝。太田は先行するのを嫌うような競走をすることがあるのですが,今日は後ろに同じ徳島の先輩がマークしていることもあってか山崎を早めに叩きにいきました。叩くことはできなかったのですが,園田が離れたため労せずして山崎の番手という絶好の位置を確保。外が渋滞になったためにイン捲りになりましたが,外からいっても勝ったのではないでしょうか。早めに叩きにいった意欲が優勝という結果を導き出したといえ,今後も今日のような競走を多くしていった方がよいのではないかと思います。

 それではのことに移ります。
 母は癌の発覚がほど進行していない段階でした。このために余命が限られた母との生活は,父との生活より長く続きました。そしてその間に僕は,それまで母に対してしたことがなかったことをいくつかすることができました。たとえば通院に付き添うとか,母のために食事の支度をするといったようなことです。こうした時間を僕に与えてくれたことについては,僕は母に対して感謝しています。
 これは下の世話と同じことで,母は僕に対してはこうしたことをよくしてくれたのです。たとえば僕が子どものころに病気になれば,病院に連れて行ってくれたのは母でした。また,母は仕事をしていて,僕は祖母,父の母とも同居していましたから,いつもそうであったわけではないのですが,僕の食事の支度を最も多くしてくれたのが母であったことは間違いありません。回数という観点からいえば,僕が最後に母にすることができたのはたかが知れているのですが,それでも少しはその恩を返すことができたという気持ちをもつことができるようになっているのも事実です。そしてもしこの状況がもっと長く続いたとしたら,僕は疲れてしまったかもしれません。母は始まりの日から概ね1年後に死んだのですが,この1年という期間は,僕にとってちょうどよい長さだったかもしれないと思うのです。
 さらにいうと,これは僕が46歳から47歳になる時期に該当しています。長男が母を亡くす時期としては早かったともいえるのでしょうが,僕はこのことについてもこれでよかったのかもしれないと思うことができるのです。
 たとえば今から10年後に,今回と同じようなことが生じたとしましょう。そのときに余命が限られた母と,重度知的障害者の妹を抱えた僕が,同じように動くことができるとは限りません。当然ながら10年後の僕は今の僕より体力的に衰えているであろうからです。そのように考えれば,確かに早かったかもしれませんが,まだ僕の体力がそこまで落ちていない段階で母がこのような状況になってしまったことは,僕にとってもまた母にとっても,よかったのではないだろうかと思えなくないのです。
コメント
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