スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京中日スポーツ賞金盃&僕の安堵

2019-02-06 19:27:53 | 地方競馬
 第63回金盃。ミヤジマッキーが感冒で出走取消となり15頭。
 好発のワークアンドラブを外から抜いてシュテルングランツがハナへ。2番手はヤマノファイトとユーロビート。4番手がガヤルド。5番手がワークアンドラブとスギノグローアップでこの6頭が先行集団。3馬身開いてレッドソロモン,カンムル。この後ろは7馬身ほどあってモズライジンとクラージュドールで併走。3馬身差でウマノジョー,サウンドトゥルー,ペイシャゴンジセとエンパイアペガサス。4馬身差の最後尾にキスミープリンスという縦長の隊列。最初の1000mは62秒7のハイペース。
 1周目の正面から向正面にかけてはユーロビートが単独の2番手。向正面に入るとスギノグローアップが外から2番手に。3コーナーでユーロビートが後退し始め,3番手はヤマノファイト。スギノグローアップはコーナーを回って一杯になり,ヤマノファイトが2番手に上がり,内から外に出てサウンドトゥルーが追い上げ開始。直線は逃げるシュテルングランツ,間のヤマノファイト,外のサウンドトゥルーの競り合い。ここからヤマノファイトが脱落して優勝争いは2頭。最後は外のサウンドトゥルーが差して優勝。シュテルングランツが半馬身差で2着。一杯になったヤマノファイトを差したワークアンドラブが1馬身4分の1差で3着。ヤマノファイトは4分の3馬身差で4着。
                                
 優勝したサウンドトゥルーは一昨年のJBCクラシック以来の勝利。南関東重賞はここが初出走で初勝利。昨年のJBCクラシックまで中央で走り,南関東に転入。転入初戦の東京大賞典でも4着でしたから,南関東重賞では明らかに能力上位。ただ僕はこの距離が向くとは思いませんでしたし,大井の長距離だと特異に走る馬というのが存在するので,足をすくわれてしまうケースもあり得ると思っていました。最後は力でねじ伏せる形になりましたが,2着馬と接戦になったのは,2着馬が大井の長距離を得意にする馬だったからでしょう。中距離の方がよいと思いますが,南関東重賞ならまだいくらでも勝てる能力が残っています。母の父はフジキセキ。2つ下の全弟に昨年の佐賀記念を勝っている現役のルールソヴァール
 騎乗した大井の御神本訓史騎手は船橋記念以来の南関東重賞33勝目。第59回以来4年ぶりの金盃2勝目。管理している船橋の佐藤裕太調教師は南関東重賞7勝目。金盃は初勝利。

 僕が母を見送ることができたときに感じた感情affectusが,第三部諸感情の定義一四の安堵securitasという喜びlaetitiaに該当することを詳しく説明しておきましょう。
 僕は小学生のときに,母は,最大の親不孝は親より先に死ぬことであると思っていると知りました。それを知ってから,そのことばが僕の胸に強く焼き付いていたというのは,僕は母が言うところの最大の親不孝者にはなりたくない,つまり母が死ぬまでは生きていたいと思い続けていたという意味です。ただしこれは感情としてみれば,欲望cupiditasというべきで,安堵が発生するために先行している必要があると僕が考えている希望spesや不安metusではありません。
 ただし,この欲望が不安と共に継続している,というか不安と共に継続せざるを得ないということは,おそらくだれにでも理解できるところと思います。母が死ぬときに僕が生きているということは確実なことではなく,母より先に僕が死んでしまうということがあり得るということは,だれにでも理解できる筈だからです。つまり一般的にいうなら,確実ではない事柄について欲望する場合,それを欲望する人間は,その欲望を充足させることができないのではないかという不安を同時に抱くことになるのです。ところが第三部定理五〇備考でスピノザがいっているように,希望のない不安というのは存在し得ません。ですから不安を感じていた僕は,同時に希望も抱いていたことになります。これは前述した一般論に照合させれば,欲望を満足させることができないのではないかという不安は,欲望を満足させられるであろうという希望と共にでなければ存在することができないという意味になります。つまり僕は,母が死ぬまで生きていることができるであろうという希望と,生きていることができないかもしれないという不安を同時に抱えつつ,母が死ぬまで生きていたいという欲望を有していたということになるのです。
 実際に母が死ぬことによって,この欲望は充足することになりました。他面からいえばそれは,希望が現実のものとなり,不安が解消されたということです。よって僕がそれによって感じることができたのは安堵という喜びであったことになるのです。
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