スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

父殺し&白髪

2014-09-21 19:02:43 | 歌・小説
 亀山郁夫が『ドストエフスキー 父殺しの文学』という題名の本を著したのは,父殺しという概念が,ドストエフスキー文学を読み解く上で,ひとつの重要な概念であると考えたからです。『カラマーゾフの兄弟』はまさに父殺しそのものを題材とした小説であり,亀山が考えていることが正しいということは間違いないでしょう。
                         
 作家個人のドストエフスキーにとって,父殺しというのが特別の概念であったことも疑い得ません。地主であったドストエフスキーの父は,1839年,18歳のドストエフスキーがペテルブルグの士官学校に在学中,農奴によって惨殺されました。フロイトはこの事件に注目し,「ドストエフスキーと父殺し」という論文を執筆。そこでドストエフスキーにとってのエディプスコンプレックスおよびその後のドストエフスキーの癲癇の発作について説明しています。フロイトの精神分析学の妥当性については疑問を呈することができるでしょうが,ドストエフスキーにとって,父殺しが小説の重要な題材になるということは,この経験の特異性を考えれば,必然的であったといえるのではないでしょうか。フロイトはドストエフスキーには父殺しの願望があり,それが農奴という別人の手によって現実化したという主旨の説明をしていますが,逆にいえばそれは,象徴的レベルにおいて,ドストエフスキーは自身の手で父を殺す前に,農奴たちによって殺されてしまったとも解釈できるからです。
 僕個人のことをいえば,小説に現れるこの要素にはあまり興味を抱けません。僕はある時期には,象徴的な意味においては父殺しを達成したと考えています。また,象徴と現実を混在化させるなら,最後に僕の口から告知をするという行為によって,それは完全に達成されたというようにも思えるからです。あれは僕の人生の中で最も気が重かった作業ではありましたが,すべての人間がこれをできるというわけではなく,貴重な体験であったという気もするのです。
 たぶん僕がこれをドストエフスキー文学の重要な要素と認識しないのは,こうした個人的な経験が反映されているからだといえます。

 5月27日,火曜日。午前中に薬局に行きました。前日も,ヒューマログが1本だけ足りませんでしたので,それを取りに行ったものです。こういう場合,僕の都合で間が開いてしまうケースもありますが,この日は午後から長者町という予定でした。
 5月30日,金曜日。妹の三者面談。勤務終了後に,施設に移動してのもの。年度が変わってのものですが,妹にはそれで何の変化も発生していませんでしたので,特別な内容はなかったようです。母と妹が帰宅したのは午後5時20分頃。僕はこの日は横浜で,それよりも1時間ほど早くに帰っていました。
 5月31日,土曜日。この日はガイドヘルパーを利用。またカラオケでした。
 6月5日,木曜日。妹の宿泊訓練がありました。施設に1泊。荷物が普段よりも多くなるので,迎えの支援を依頼しました。関東地方はこの日から梅雨入りで,雨になりましたので,頼んでおいて助かりました。帰宅は翌日ですが,この日も送りの支援を依頼しました。
 6月7日,土曜日。妹のピアノのレッスン。これは午後3時半からでした。
 6月8日,日曜日。母と妹で美容院へ。妹は僕より6歳若いのですが,若いうちからかなり白髪が目立っています。このため,美容院へ行った後は,自宅で髪を染めています。当然ながら自分ではできませんから,これは母の仕事。母の入院中も妹は何度か美容院に通ったわけですが,僕は妹の髪を染めるということはしませんでした。母は脳内出血で病院に行くというときにも自分が着ているものを気に掛けたくらいですが,僕は外見には気を使いませんので,こうした形になっています。もっとも,だから当時の妹が白髪の生活を送っていたのかといえばそうでもなく,来日中の伯母に染めてもらってはいました。T先生の夫人のエピソードなどからも,僕の感性が特異であるということでしょう。
 6月14日,土曜日。この日もピアノのレッスンがありました。2週連続になったのは先生の都合によるもの。この日は午後5時45分と,これまでで最も遅い時間の予定でした。ただ,先生は予定より早くお見えになりましたので,10分ほどでしたが早めの開始になっています。
コメント
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