スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&主体の排除の基礎

2021-03-03 19:08:46 | 将棋
 昨日の第32期女流王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は伊藤沙恵女流三段が6勝,山根ことみ女流二段が1勝。
 振駒で伊藤三段の先手。後手の山根二段が向飛車にしてから先手も向飛車にしての相振飛車。終盤は1分将棋の激戦となり,先手が入玉できるか後手が阻止するかの勝負になりました。
                                        
 後手が歩を打った局面。実戦はこれを☗同成銀と取り,☖1二歩☗5八銀☖1三歩☗同龍☖3五銀と進みました。
                                        
 銀を打ったのですからここで☗6九銀としたいですがそれには☖2三金や☖3四馬があります。よって☗6七歩と打ちましたが☖同馬☗同金☖5八角成となっては後手の勝勢です。
 第1図は☗同龍の方がよかったかもしれません。これには☖3六角成がありますが☗2五金でそこまで簡単には寄らないのではないでしょうか。また☗5八銀は損な手だったので,そこで先に☗6七歩と打った方がまだよかったでしょうが,これは☖1三歩☗同龍☖3六角成☗2五金となりそうなので,第1図で☗同龍より明らかに劣ります。
 山根二段が勝って挑戦者に。タイトル戦初出場となります。

 前もっていっておくと,神Deusのうちに神の観念idea Deiがあるということ,そしてその観念は十全な観念idea adaequataであるということは,主体の排除との関係で考察する場合は,既定の事実であるという面があります。というのも,そのことが主体の排除を基礎づけている側面があるからです。そこでここでは,なぜそのことがこの場合には既定の事実とみなされなければならないのかも含めて説明することができるような方法で,神のうちには神自身の十全な観念があるということを論証していきます。
 第一部定理一一により,神すなわち無限に多くのinfinita属性attributumによってその本性essentiaを構成される実体substantiaは存在します。したがって,神の観念というのも存在しなければならないことになります。いい換えれば神の観念もあります。そして第一部定理一五により,神の観念があるのであれば,それは神のうちにあるのです。いい換えれば,もしもある人間の精神mens humanaのうちに神の十全な観念があると仮定しても,それは本来的な意味ではその人間の精神のうちにあるとみられるべきではなく,神のうちにあるとみられなければなりません。この場合は,その人間の精神の本性を構成する限りでの神のうちに,神自身の十全な観念があると説明されることになります。第一部定理一五と第二部定理一一系との間には,このような関係があるのです。さらに第二部定理七系の意味から,神のうちあるとされる神の観念は,十全な観念でなければなりません。ここでは最初に第一部定理一一を援用しましたから,十全であるとされるその神の観念は,無限に多くの属性によって本性を構成される実体の観念ではありますが,そうした絶対に無限な実体に限らず,あるものが存在するということについては様ざまな論証Demonstratioがあり得るのであって,そうしたものを観念対象ideatumとした観念も神のうちにあり,かつ十全なのですから,このことは神をどのように解するにしても成立します。他面からいえば,あらゆる観念は神のうちにあり,かつ十全なのですから,このことは神を観念対象としなくても成立するのです。そしてこのことが,十全な観念の形相formaは唯一であるということを導出するのであり,主体の排除を基礎づけることになるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする