スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯棋聖戦&神と神々

2020-06-29 19:33:22 | 将棋
 昨日の第91期棋聖戦五番勝負第二局。
 渡辺明棋聖の先手で相矢倉。後手の藤井聡太七段が5筋の歩を突くのを保留する工夫をみせ,先手は急戦を用いました。
                                        
 後手が桂馬を跳ねた局面。5筋の歩を突かなかった効果で金が5四に上がれたため,桂馬が取れそうでしたが,ここで取るのは先手からの反撃があって無理だった模様です。
 ここでたとえば☗7九王と寄るような手はあるでしょうが,後手が桂馬を攻めに使ってきたのと比べると価値で劣りそうです。なので攻めたいところで,☗3五歩と突きました。
 後手は☖6五桂と跳ねて☗6八銀と引かせたところで☖4五銀を決行。ここから☗2二角成☖同金☗4五銀☖同金までは必然。先手はいろいろと攻めの手段がありますが,☗4三歩☖同飛と飛車を動かしておいて☗6六角と金取りに打ちました。これに対して☖3一銀。
                                        
 この手は☖4六桂と攻め合っても☖3二金と逃げてもうまくいかないので選択されたという印象です。ところがこの局面では最善手だったようで,第2図では先手に勝ちがなくなっていました。☖3一銀と打ってくれるならいい攻め方をしたという感じがしますから,先手の手順は仕方がなかったものと思います。この将棋の後手の指し手の選択はAIを相手にしても通用するレベルだったと思いますので,後手の読みの精度の高さを称えるべき一局でしょう。
 藤井七段が連勝。第三局は来月9日です。

 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの有名なことばに,「神は死んだGott ist tot」というのがあります。このときニーチェが死んだといっている神は,キリスト教の神のことですが,それは同時に唯一神という意味でもあります。したがってニーチェが「神は死んだ」というときは,スピノザの哲学における神も死んだという意味が含まれているのであって,この点では『アンチクリストDer Antichrist』における蜘蛛としての神は,キリスト教における神であると同時に,スピノザの哲学における神も含意するのです。なかんずくニーチェは,神が蜘蛛となって自ら網を張るようになったのは,スピノザの相の下においてであるといっているので,蜘蛛としての神という場合は,キリスト教における神という意味以上に,スピノザの哲学における神という意味を強調しているといえるかもしれません。一方で,ニーチェが「神は死んだ」といっているとしても,それは唯一神が死んだという意味であるということも重要であって,神々が存在するという意味では,ニーチェはそれを肯定すると解してもそんなに間違ってはいないのです。
 とはいえ,第一部定義六で定義されている神Deumは,第一部定理一四系一によって唯一神であるものの,キリスト教における神と違っているということもまた,スピノザの哲学を理解する上では重要なので,このことについてはもう少し詳しく説明しておいた方がいいでしょう。
 まず第一部定義六というのは,神を~と解するintelligereという形式の定義Definitioとなっています。この直前に実体substantiaの定義について探求した部分から分かるように,この種の定義は基本的に名目的定義あるいは名前の定義です。ただし,第一部定理一一第三の証明から明白なように,もしもあるものが絶対に無限absolute infinitumであると解されるなら,解された当のものは必然的にnecessario存在することになります。よってこの点を重視するなら,この定義は名目的定義ではあるけれど,実在的な意味も有していると考えることはできるでしょう。ただしこの解釈をするときに注意しなければならないのは,必然的に存在するのは絶対に無限であると定義されたものなのであって,それが神と命名されなければならない必然的な理由があるわけではないということです。
コメント
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