スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

叡王戦&基のテクスト

2020-09-24 19:14:35 | 将棋
 21日に指された第5期叡王戦七番勝負第九局。第八局終了後の振駒で後手となった永瀬拓矢叡王の選択した持ち時間は6時間。
 豊島将之叡王の先手で角換り相腰掛銀。中盤から終盤に入る付近で見応えのある応酬が繰り広げられました。
                                        
 第1図は5五から銀が引いた局面。自らと金に取られる場所に行く手。狙いは☖5五角と王手に打つ手。どうやらこれが入ると先手が大変のようで,金も銀も取らずに☗7七歩と受けました。
 後手が☖5九角と打ったときに今度は先手が☗2五桂と歩の頭に跳ねる手を放ちました。これは☖同歩とさせて後で2五に飛車を走り,さらに4筋を突き捨てて飛車を8筋に回ろうという壮大な狙い。ただし本当は☗4六角と打つのが優ったようです。
 ☖同歩☗6二とまでは必然です。
                                        
 実戦はここで☖3七角成とし,☗6三角から飛車を交換する順に進みました。ただ飛車交換はさすがに先手に分があり,はっきりした差がつくことに。第2図は☖6七歩と打てばまだ難しかったようです。
 おそらく第1図の☖6四銀は先手は読んでいなかったでしょうし,第2図に至る途中の☗2五桂は後手の読みになかったそうです。読みにない手を指されたときの対応の差が,この一局の勝敗を分けたといえそうです。
 4勝3敗2持将棋で豊島竜王が叡王を奪取。叡王は初めての獲得になります。

 実無限という術語は,柄谷行人がスピノザの哲学を探求するときに用いているものです。柄谷はスピノザとほかの哲学者の無限infinitumの概念notioを差異づけるために,スピノザがいう無限は実無限であるといういい方をします。このような術語を用いて探求していることから容易に類推することができると思いますが,柄谷もまた,実無限と無限定indefinitumや無際限indefinitumを分別して探求することが重要であるとみなしています。つまり,無際限や無限定を無限という概念を構成しないと考えることは,僕だけに特異な姿勢であるわけではありません。
 一方,河合は無限定や無際限を第三の規定としてスピノザの哲学における無限の概念のひとつを構成しているとみています。このようにみることにも理由がないわけではありません。そこで,どのような観点からはこのように把握することが適切であるとみられるのかということを説明しておきましょう。
 基本的に河合の分類というのは,河合が独自に分類したものではありません。それどころか,スピノザ自身のテクストに依拠しているのです。それはスピノザがマイエルLodewijk Meyerに宛てた書簡十二です。この書簡は無限なるものの本性についてという副題の下に,スピノザの存命中から多くの人に知られていたものです。ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizもこの書簡を読んだということが,『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』で指摘されています。そしてこの書簡の中で,スピノザは河合が分類しているのと同じように,無限であるものについて語っています。
 あるものはその本性essentiaの上で無限であり,それはいかにしても有限finitumであるとは考えられません。これは第一規定に該当します。神Deusおよび神の属性attributumがその具体的なものです。
 あるものはそれが依存している原因causaの力potentiaによって無限です。これは第二規定に該当します。具体的には無限様態modus infinitusです。そしてこうしたものは,原因から抽象されるなら,部分に分割されて有限であるとみなされます。これらのことからも,スピノザが,実体は分割できないけれど,無限様態は分割され得るとみなしていたことが分かります。ただしそれは,第二規定の無限,すなわち無限様態が,原因から抽象される限りにおいてである点には注意が必要でしょう。
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