昨日の第2期清麗戦五番勝負第五局。
振駒で上田初美女流四段の先手となり,里見香奈清麗のごきげん中飛車。①-Aから4筋で銀が向い合う形に。途中で先手に攻め間違いがあり,そこからは後手が有利に進展していました。
先手が歩を打った局面。ここから☖7一角☗1一角成☖7六香☗7七香と進んでいますが,これは手順前後のような気がします。第1図ですぐに☖7六香と打てば,持駒に香車がない先手は困ったことでしょう。
後手は☖7七同香成☗同金☖8五桂と攻めを続けました。ここで手番を得た先手は☗9三歩成☖同角☗9二歩☖7一王と進めました。
第2図で☗6四香と打ったのが最終的な敗着だったと思われます。☖3三香が攻防の一着となりました。第2図では☗4四馬と王手銀取りに引いておけば,混戦に持ち込めていました。
3勝2敗で里見清麗が防衛。第1期からの連覇になります。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは著名人ですから,面識はなくても,マイエルLodewijk MeyerもイエレスJarig Jellesも名前は知っていたと推測されます。一方,マイエルとイエレスはライプニッツと比べれば著名とはいえませんから,もしライプニッツがチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausからその存在を聞き及んでいなかったとすれば,名前すら知らなかった可能性があります。つまりライプニッツがオランダに着いたとき,マイエルのこともイエレスのことも,何も知らなかったという可能性は想定しておかなければなりません。
ライプニッツがパリからすぐにドイツに戻らずに旅をした最大の目的は,スピノザとの面会にあったと推定できます。ロンドンまで行ってオルデンブルクHeinrich Ordenburgと面会したのは,そのための準備の一貫であったかもしれません。実際にそこでライプニッツは,オルデンブルクとスピノザの間で交わされていた書簡を見せてもらっているからです。ですからオランダでシュラーGeorg Hermann Schullerと会ったのも,スピノザとの面会の準備であったと思われます。そしてそうであれば,ライプニッツがシュラーに,ほかのスピノザの友人との仲介を求めたとしても不自然ではないことになります。シュラーはその求めに応じ,マイエルとイエレスをライプニッツに紹介したことによって,ライプニッツとマイエル,そしてライプニッツとイエレスの面会も成立したというのも,可能性のひとつとしてはあるでしょう。もちろん僕はこれが史実であったといっているわけではなく,このような物語を作ったとしても,成立はするといっているだけです。そして史実として確実であるといわなければならないのは,どういう経緯であったにせよ,ライプニッツがマイエルおよびイエレスに会ったということです。これはこれで重要なことなのですが,その重要性については後回しにします。
ライプニッツはフッデJohann Huddeにも会いました。これももしかしたらスピノザとの会見の準備の一貫だったかもしれません。書簡三十四,書簡三十五,書簡三十六がフッデに宛てたものであったということが判明したのは,ライプニッツの研究家による発見によります。つまりこの3通の手紙については,このときのフッデとの面会でライプニッツは読んでいたと思われます。
振駒で上田初美女流四段の先手となり,里見香奈清麗のごきげん中飛車。①-Aから4筋で銀が向い合う形に。途中で先手に攻め間違いがあり,そこからは後手が有利に進展していました。
先手が歩を打った局面。ここから☖7一角☗1一角成☖7六香☗7七香と進んでいますが,これは手順前後のような気がします。第1図ですぐに☖7六香と打てば,持駒に香車がない先手は困ったことでしょう。
後手は☖7七同香成☗同金☖8五桂と攻めを続けました。ここで手番を得た先手は☗9三歩成☖同角☗9二歩☖7一王と進めました。
第2図で☗6四香と打ったのが最終的な敗着だったと思われます。☖3三香が攻防の一着となりました。第2図では☗4四馬と王手銀取りに引いておけば,混戦に持ち込めていました。
3勝2敗で里見清麗が防衛。第1期からの連覇になります。
ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは著名人ですから,面識はなくても,マイエルLodewijk MeyerもイエレスJarig Jellesも名前は知っていたと推測されます。一方,マイエルとイエレスはライプニッツと比べれば著名とはいえませんから,もしライプニッツがチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausからその存在を聞き及んでいなかったとすれば,名前すら知らなかった可能性があります。つまりライプニッツがオランダに着いたとき,マイエルのこともイエレスのことも,何も知らなかったという可能性は想定しておかなければなりません。
ライプニッツがパリからすぐにドイツに戻らずに旅をした最大の目的は,スピノザとの面会にあったと推定できます。ロンドンまで行ってオルデンブルクHeinrich Ordenburgと面会したのは,そのための準備の一貫であったかもしれません。実際にそこでライプニッツは,オルデンブルクとスピノザの間で交わされていた書簡を見せてもらっているからです。ですからオランダでシュラーGeorg Hermann Schullerと会ったのも,スピノザとの面会の準備であったと思われます。そしてそうであれば,ライプニッツがシュラーに,ほかのスピノザの友人との仲介を求めたとしても不自然ではないことになります。シュラーはその求めに応じ,マイエルとイエレスをライプニッツに紹介したことによって,ライプニッツとマイエル,そしてライプニッツとイエレスの面会も成立したというのも,可能性のひとつとしてはあるでしょう。もちろん僕はこれが史実であったといっているわけではなく,このような物語を作ったとしても,成立はするといっているだけです。そして史実として確実であるといわなければならないのは,どういう経緯であったにせよ,ライプニッツがマイエルおよびイエレスに会ったということです。これはこれで重要なことなのですが,その重要性については後回しにします。
ライプニッツはフッデJohann Huddeにも会いました。これももしかしたらスピノザとの会見の準備の一貫だったかもしれません。書簡三十四,書簡三十五,書簡三十六がフッデに宛てたものであったということが判明したのは,ライプニッツの研究家による発見によります。つまりこの3通の手紙については,このときのフッデとの面会でライプニッツは読んでいたと思われます。