13日と14日に三瓶温泉で指された第70期王将戦七番勝負第六局。
永瀬拓矢王座の先手で角換り。先手の早繰り銀に後手の渡辺明王将が腰掛銀で対抗した将棋は13日に千日手が成立。成立した時刻の規定により,その日のうちに指し直し局が開局。先手となった渡辺王将が角換りから銀を動かさずに桂馬で速攻を掛け,永瀬王座が早繰り銀で対抗という将棋になりました。僕は先手が無理に攻めているのではないかと思っていたのですが,局面の均衡は保たれていたようです。
この将棋は66手目に☖3六歩と打ったらどうかということが感想戦で指摘され,☗同銀の変化で後手は自信がないという結論が出ています。ただ,実戦の進行と比較したときに,本当にそちらが悪かったのかということの検証は必要でしょう。とはいえこの手順は棋譜コメントに掲載されていますので割愛し,☖3六歩には☗同角の変化もあり得るでしょうから,こちらを考えてみました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/42/d44848c53658f937cc9638cbc746756b.png)
第1図になれば後手は☖5四桂ではなく☖4四桂と打ってみたい気がします。これに対して☗4五角と戻るのは☖3六歩☗2六銀で角が中途半端になってしまうので,☗4七角と馬にぶつけてみます。
これでも後手は☖3六歩と打つでしょう。☗2六銀と逃げたら☖4七馬☗同金と後手から交換してしまい,☖7七歩成とします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/63/db94622f935b5652b20d9dce87ff4493.png)
先手がまずそうですが☗7三歩と打つ手があって,これは後手も取りにくいでしょう。なのでこの変化も十分にあり得るものではないでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/c0/a3efbc43ead4b8475eb0a8ce4bbced9a.jpg)
勝った渡辺王将が4勝2敗1千日手で防衛。第62期,63期,68期,69期に続く三連覇で通算5期目の王将位獲得です。
畠中の区分のうち,人間の精神mens humanaのうちに神の観念idea Deiがあるという場合は,この観念は思惟の属性Cogitationis attributumの個物res singularisとみなさなければなりません。つまりこの限りにおいて,神の観念は,思惟の属性の個物であるということになります。
一方,神自身のうちに神の観念があるという場合は,必ずしもそれを思惟の属性の個物とみなさなければならないのかは分かりません。たとえば,人間の精神というのと同じ意味で,神の精神を考えてみたとしましょう。すると,人間の精神というのはその人間の身体の観念のことですから,神の精神というのもそれと同様に解さなければなりません。ただし神の身体corpusは物体corpusではあり得ません。むしろ永遠aeterunusかつ無限に存在する形相的有esse formaleを想定しなければなりません。人間の精神が持続するdurareものであるのは,観念対象ideatumであるその人間自身の身体が持続するものであるためですから,この場合には神の精神というのは,無限infinitumであるといわなければならないかは分かりませんが,永遠でなければならないのは間違いないところです。したがって神のうちにある神の観念も,永遠であるという可能性は排除できないでしょう。
この場合には,単に神のうちにある神の観念だけが永遠であるというわけではなく,神のうちに何らかの観念があるのであれば,その観念はすべて永遠であるといわなければなりません。基本的な原理としては,第一部定理一一にあるように神が存在するので神の観念があるのでなければならず,第一部定理一五によって神の観念はあるとするなら神のうちにあるというように規定されるのであって,神のうちには神の観念があるのです。ただそれが,たとえば神がある人間の精神の本性naturaを構成する限りで神のうちに神の観念があるというような仕方で神と関連付けられるのと同様に,神が絶対に無限な実体substantiaである限りにおいて神のうちに神の観念があるという仕方で関連付けてよいのかは僕には分かりません。分からないというのは文字通りに分からないという意味であって,他面からいえばそれは人間には認識するcognoscereことができないといっていいでしょう。ただ,そういう可能性を完全に排除することが不可能であるということだけが確実なのです。
永瀬拓矢王座の先手で角換り。先手の早繰り銀に後手の渡辺明王将が腰掛銀で対抗した将棋は13日に千日手が成立。成立した時刻の規定により,その日のうちに指し直し局が開局。先手となった渡辺王将が角換りから銀を動かさずに桂馬で速攻を掛け,永瀬王座が早繰り銀で対抗という将棋になりました。僕は先手が無理に攻めているのではないかと思っていたのですが,局面の均衡は保たれていたようです。
この将棋は66手目に☖3六歩と打ったらどうかということが感想戦で指摘され,☗同銀の変化で後手は自信がないという結論が出ています。ただ,実戦の進行と比較したときに,本当にそちらが悪かったのかということの検証は必要でしょう。とはいえこの手順は棋譜コメントに掲載されていますので割愛し,☖3六歩には☗同角の変化もあり得るでしょうから,こちらを考えてみました。
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第1図になれば後手は☖5四桂ではなく☖4四桂と打ってみたい気がします。これに対して☗4五角と戻るのは☖3六歩☗2六銀で角が中途半端になってしまうので,☗4七角と馬にぶつけてみます。
これでも後手は☖3六歩と打つでしょう。☗2六銀と逃げたら☖4七馬☗同金と後手から交換してしまい,☖7七歩成とします。
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先手がまずそうですが☗7三歩と打つ手があって,これは後手も取りにくいでしょう。なのでこの変化も十分にあり得るものではないでしょうか。
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勝った渡辺王将が4勝2敗1千日手で防衛。第62期,63期,68期,69期に続く三連覇で通算5期目の王将位獲得です。
畠中の区分のうち,人間の精神mens humanaのうちに神の観念idea Deiがあるという場合は,この観念は思惟の属性Cogitationis attributumの個物res singularisとみなさなければなりません。つまりこの限りにおいて,神の観念は,思惟の属性の個物であるということになります。
一方,神自身のうちに神の観念があるという場合は,必ずしもそれを思惟の属性の個物とみなさなければならないのかは分かりません。たとえば,人間の精神というのと同じ意味で,神の精神を考えてみたとしましょう。すると,人間の精神というのはその人間の身体の観念のことですから,神の精神というのもそれと同様に解さなければなりません。ただし神の身体corpusは物体corpusではあり得ません。むしろ永遠aeterunusかつ無限に存在する形相的有esse formaleを想定しなければなりません。人間の精神が持続するdurareものであるのは,観念対象ideatumであるその人間自身の身体が持続するものであるためですから,この場合には神の精神というのは,無限infinitumであるといわなければならないかは分かりませんが,永遠でなければならないのは間違いないところです。したがって神のうちにある神の観念も,永遠であるという可能性は排除できないでしょう。
この場合には,単に神のうちにある神の観念だけが永遠であるというわけではなく,神のうちに何らかの観念があるのであれば,その観念はすべて永遠であるといわなければなりません。基本的な原理としては,第一部定理一一にあるように神が存在するので神の観念があるのでなければならず,第一部定理一五によって神の観念はあるとするなら神のうちにあるというように規定されるのであって,神のうちには神の観念があるのです。ただそれが,たとえば神がある人間の精神の本性naturaを構成する限りで神のうちに神の観念があるというような仕方で神と関連付けられるのと同様に,神が絶対に無限な実体substantiaである限りにおいて神のうちに神の観念があるという仕方で関連付けてよいのかは僕には分かりません。分からないというのは文字通りに分からないという意味であって,他面からいえばそれは人間には認識するcognoscereことができないといっていいでしょう。ただ,そういう可能性を完全に排除することが不可能であるということだけが確実なのです。