スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&観念の唯一性

2021-03-19 19:04:00 | 将棋
 17日に東郷神社で指された第46期棋王戦五番勝負第四局。
 糸谷哲郎八段の先手で角換り。先手が1筋の位を取って腰掛銀にすると後手の渡辺明棋王棒銀に。
                                        
 後手が玉を固めた局面。この局面で最も普通の手は☗6八玉ではないかと思います。ただこれは後手が攻めてきている地点に近付くので,避けたい感じもあります。後手がこの手を指さなかったのは,おそらくそうした理由からだったと推測します。
 実戦は☗4五銀と指しました。腰掛銀がここに出るのは,相腰掛銀でない場合は珍しい手で,この手の正否は一局の行方を大きく分かつものだったと思います。
 後手は☖7二飛と寄りました。これは銀取り。先手は☗7七歩と打って受けました。後手の継続手は棒銀を捌きにいく☖7五銀で,先手は☗8三角と打ちました。
 これには☖7三飛もあるところですが☖8二飛と戻りました。先手は☗7四角成。
                                        
 先手は駒損なく馬を作ることに成功したのですが,実戦はこの馬が攻撃目標になってしまいました。7四に成るのではなく6一に成っておいた方が,☗4五銀を生かすことができたようですし,7四に成ったのなら後手の飛車を押さえ込む展開に持ち込む必要があったようです。
                                         
 渡辺棋王が勝って3勝1敗で防衛第38期,39期,40期,41期,42期,43期,44期,45期に続く九連覇で通算9期目の棋王位獲得です。

 第二部定理四を証明する際に,第一部定理三〇に訴求するとき,有限なfinitum知性intellectusは無視して無限知性intellectus infinitusだけを考えればよいのなら,神の観念idea Deiには多様な解釈が要求されているということと,この定理Propositioとの間には齟齬はないということになります。ただし,第二部定理一一系は,人間の知性が神の無限知性,おそらくは第一部定理三〇で現実に無限な知性といわれているときに想定されていると思われる無限知性の一部なのですから,このような意味で有限な知性,いい換えれば無限知性の一部が有するような神の観念についても,第二部定理四が妥当するとするなら,神の観念に多様な解釈が許されるあるいは多様な解釈が要求されていると結論することと,第二部定理四との間には齟齬が生じると思われるかもしれません。ですがこの場合でも必ずしもそのように解さなくてもよいと僕は思いますので,その理由を説明していきます。
 第二部定理四が主張したいのは,神の観念の形相formaが,どのような知性にあっても同一であるということではありません。このことはこの定理がどのように論証されているのかということから明らかです。いい換えればこの定理は主体の排除との関連で考える必要はないのであって,神の観念が唯一であるという観点から考えるべきなのです。
 スピノザの哲学でいう唯一というのは,1という数のことをいうのではありません。ですから,仮にある知性のうちにある神の観念と,それとは別の知性のうちにある神の観念が,異なった観念であったとしても,神の観念が唯一であるということは論理上は可能です。この場合はふたつの神の観念があることになりますが,ふたつの神の観念の各々が唯一であることは可能だからです。一方,すべての知性のうちにある神の観念が同一である場合は,ひとつの神の観念だけがあるということになりますが,だからといってそのことから神の観念は唯一であると結論することはできません。このことのうちには,神の観念が唯一であるということは含まれていないからです。いい換えれば,このことをもってして神が唯一無二の存在であるということがその神の観念に含まれていると断定することができないからです。
コメント
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