スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
東京ダービートライアルの昨晩の第28回クラウンカップ。

ケンシレインボーは立ち上がるような発馬で1馬身の不利。アーサが逃げて2番手にヤギリケハヤ。3番手にドリームジャパンで4番手にプレミアムハンド。5番手はミーヴァトンとケンシレインボー。2馬身差でプローラーティオー。最後尾にゴールドモーニンで発馬後の正面を通過。前半の800mは53秒7の超スローペース。
ペースを見越して後方2番手からプローラーティオーが向正面で外を一気に進出。逃げたアーサはこれに対応。ヤギリケハヤとドリームジャパンは一時的に2馬身ほど離されましたが,コーナーにかけてまた追いついてきました。その後のコーナーではヤギリケハヤが内に進路を取り,ドリームジャパンは外へ。この2頭の直後には内から順にミーヴァトン,プレミアムハンド,ケンシレインボー,ゴールドモーニンの4頭。直線の入口で外からドリームジャパンが前に。内からヤギリケハヤ,直線では外に出したミーヴァトンの2頭が追い,外のミーヴァトンがドリームジャパンを差して優勝。ドリームジャパンがクビ差で2着。ヤギリケハヤがアタマ差で3着。
優勝したミーヴァトンは南関東重賞初制覇。ここまで8戦して2勝。前々走ではヤギリケハヤに2秒も負けていて,前走で2勝目をあげていたとはいえ伏兵。このレースは逃げたアーサがペースを落としすぎたきらいがあり,このためにプローラーティオーに一気に動かれ急激なペースアップ。その後ろにいたヤギリケハヤとドリームジャパンも行きがかり上それについていかなければならなくなり,それよりも後ろにいたミーヴァトンに展開が向きました。これまでの戦績ほどの能力差があったわけではなく,展開などで着順が入れ替わる力関係であったといことなのでしょう。父はスマートファルコン。祖母の父がアグネスタキオン。曾祖母の父がサッカーボーイ。Myvatnはアイスランドにある湖。
騎乗した川崎の町田直希騎手は鎌倉記念以来の南関東重賞16勝目。クラウンカップは初勝利。管理している川崎の佐藤博紀調教師は開業から9年8ヶ月で南関東重賞初勝利。
地域担当支援主任のSさんから伝えられた内容が正しかったとすれば,妹は24日は陽性で25日は陰性だったので,たとえば23日には陽性だったと考えなければなりません。僕が妹をグループホームに送ったのが21日ですから,その日も実際は陽性だったことになるでしょう。つまり僕が18日に迎えに行った時点で妹は陽性だった可能性があります。僕は妹に対してはいわゆるワンオペですから,濃厚接触をしないということはできません。ですから妹がウイルスに感染していれば僕にも感染するでしょうし,逆に僕が感染すれば妹にも感染するであろうということは,新型コロナウイルスが流行した頃から分かっていたことでした。
では僕の体調はどうだったかといえば,妹を本牧脳神経外科に連れて行った19日の夜から,体調不良を感じていました。21日に妹をグループホームに送りましたが,体感としてはこの日が最も不調でした。僕は血糖値を計測していて,シックデイにはそれが高くなりますから,それで身体の状態をみるということができるのですが,20日から21日にかけては,計測した血糖値が300㎎/㎗を超過しているケースが4度もありました。これはさすがに異常な数値というべきで,それが新型コロナウイルスによるものかどうかは別に,僕の身体に何らかの異変が生じていたということは疑い得ないです。
ただそういう状態ではあっても,僕は発熱はありませんでしたし,また発熱した妹がそうであったように,食事は普段通りに食べることができました。妹を送ることもできましたし,通院もできたように,日々の生活に支障を来すことはありませんでした。なので僕は検査を受けていませんから,感染していたのかどうかは不明です。したかもしれないししなかったかもしれないとしかいいようがありません。また,仮に感染していたとして,それが妹から感染したのかも分かりません。僕が先に感染して,それが妹に感染したというケースも考えられるからです。はっきりしているのは,妹は2度の検査を受けて1度は陽性と判定されたということと,僕の血糖値に高騰があり,それは身体の調子に異変が生じていたからだというふたつのことだけです。
第2回兵庫女王盃。
好発はスマイルミーシャでしたが,あっという間にアンデスビエントが前に出て2馬身のリード。クレスコジョケツとライオットガールが2番手で並び4番手にフローラルドレスで5番手にマルグリッド。2馬身差でテンカジョウとスマイルミーシャ。2馬身差でサンオークレア。アーテルアストレアが差がなく続き3馬身差の最後尾にアンティキティラで発馬後の向正面を通過。正面に入ってテンカジョウが上昇。ライオットガールが対応したので,2周目の向正面に入るところでアンデスビエントとライオットガールの差が1馬身。2馬身差でテンカジョウ,さらに2馬身差の4番手にアーテルアストレアという順に。スローペースでした。
2周目の向正面ではアーテルアストレアが外を上昇。3コーナーでは単独の先頭に。外を回っていたのでアンデスビエントとライオットガールがその後のコーナーで盛り返し,その後ろからテンカジョウも追い上げてきました。4コーナーでは4頭が並び,アンデスビエントはすぐに脱落。残り3頭の競り合いは大外のテンカジョウが制して優勝。アーテルアストレアが2馬身差の2着。ライオットガールが1馬身4分の3差で3着。
優勝したテンカジョウはマリーンカップ以来の重賞2勝目。当時は3歳限定でしたが,その後の古馬混合戦も2戦連続で3着。ここはそのときに先着された馬たちが不在でしたから最有力候補。トップとは少し差があるかもしれませんが,牝馬のダート重賞路線ではこれからも堅実に走っていくでしょう。従姉の子に一昨年のゴールドジュニアを勝っている現役のクルマトラサン。
管理している岡田稲男調教師と騎乗した松山弘平騎手は兵庫女王盃初勝利。
業者が来たのは午後だといいましたが,この日はほかの家屋の作業を終えてからの来訪でしたから,午後5時45分でした。ですからこの日は何かの作業をしたというわけではなく,下見でした。概ねの見積もりをしてもらい,翌日から工事に入ることになりましたので,その契約を済ませただけです。
1月6日,土曜日。この日の午前9時から工事に入りました。ただ実際に工事に取り掛かってから判明したことなどもあり,工事の全体は僕が予期していたよりも大きなものとなり,その影響で時間も要するものになってしまいました。これにはいくつかの要因があったので,まずそれを先に説明しておきます。
最大の要因は,下水管の配置が僕が思っていたものと違っていたことです。
以前に下水管が詰まったときにも説明しましたが,僕の家のトイレと洗濯場,風呂はいずれも北向きになっています。このうちトイレが最も東側にあり,トイレからの排水が第一のマスを通過して西に流れます。この第一のマスはかつての隣家とは共同使用になっていて,隣家の台所などの排水も流れ込むようになっていました。現在は隣家が新築しましたから,僕の家のトイレ専用になっていますが,かつてはそのようになっていましたので,ここにマスが設置されていたのです。このマスが西に流れ,第二のマスに至ります。この第二のマスで僕の家の風呂と2階のトイレの排水と合流します。それはさらに西に流れ,僕の家の敷地の最も西側に至ったところにまたマスがあります。
10年ほど前に水道管の交換をした台所は西向きになっていて,洗面台の排水と共に西側に排水されます。この部分に第四のマスがあります。僕はこの第四のマスから第三のマス,すなわち北に排水が流れて第三のマスに至り,第三のマスからさらに隣家の敷地である北側に流れていくと思っていました。ところが調べてみると実際はそうではなく,第三のマスから第四のマスへ南に流れていき,さらに僕の家の最も南まで至ると今度は東に方向を変え,僕の家の最も東側のところで共同の排水溝に合流するようになっていました。つまり僕の家をほぼコの字型に囲むように下水管が設置されていたのです。
昨晩の第48回京浜盃。強風の影響で東北新幹線が運休したため山本聡哉騎手が移動できず,プレミアムハンドは笹川騎手に変更。
好発はオンリーユーズドだったのですがすぐに下げ,その内のリコースパローの逃げに。リードは2馬身。2番手にアメージングで3番手はナチュラルライズとハッピーマン。3馬身差でナイトオブファイアとウィルオレオールとページェント。8番手にシビックドリーム。6馬身差でプレミアムハンド。4馬身差でオンリーユーズドとソルジャーフィルドとフレンドローマ。4馬身差でカセノタイガー。3馬身差の最後尾にバブリングストーン。ミドルペースでした。
3コーナーを回るとアメージングはリコースパローについていくのが大変になってきました。内を回ったのがナチュラルライズで外から追ってきたのがハッピーマン。直線に入ると内を回ったナチュラルライズがリコースパローの外にもち出し,並びかけて前に出るとそのまま抜け出して楽勝。リコースパローが逃げ粘って6馬身差で2着。最終コーナーはやはり内を回って外に出てきたナイトオブファイアが3馬身半差で3着。後方から大外を追い込んだソルジャーフィルドが1馬身4分の1差で4着。
優勝したナチュラルライズは重賞初勝利。デビューから連勝した後,前走の全日本2歳優駿は4着に負けていましたが,これは小回りを苦にした印象が強く,巻き返しが可能とみていました。楽勝になったのはタイムが早かったからで,この時計で走ることができる馬がほかにはいなかったということでしょう。ですからダートクラシックの路線では主役級だと思います。父はキズナ。
騎乗した横山武史騎手と管理している伊藤圭三調教師は京浜盃初勝利。
スピノザの人間中心主義は,人間原理で考えるがゆえの人間中心主義で,自己の利益suum utilisを追求するということは人間にだけ特有のことではありません。ただスピノザは人間に対して人間について語るわけですから,それ以外のものの利益について詳細に語る必要がありません。このことがスピノザの思想の中に人間中心主義を感じさせる大きな要因となっているのだろうと僕は思います。つまりこの人間中心主義は,自然中心主義の一部をなすのであって,一方で思想については人間原理で語りますから,人間中心主義が強く出てくることになるのです。

このような観点の人間原理で感情affectusを論じると,感情を必要以上に人間に限定してしまうことになると僕は思うのです。人間原理ですから人間の感情について説明すれば十分であって,人間以外のものの感情について論じる必要はありません。これはその通りであって,確かにスピノザは馬に情欲libidoという感情があることは認めていますが,それは感情論の中で語られているわけではなかったのでした。それと同様に,人間原理では人間を対象objectumとした感情を考察することが重要になるという意識がスピノザにはあったのではないでしょうか。第四部定理四五備考でいわれているように,憎しみodiumのうち人間の人間に対する憎しみに限定して論じることはとても重要であり,これは同時に人間以外に対する憎しみもあるということをスピノザが認めていた証拠ではあるのですが,そうした人間以外のものに対する憎しみは,感情論において語る上では,人間に対する憎しみに対して軽んじられているとみることができないわけではありません。これと同じような姿勢が僕が示した好意favor,憤慨indignatio,買いかぶりexistimatio,みくびりdespectus,ねたみinvidia,同情misericordiaといったような諸々の感情に適用されているのではないでしょうか。そしてこの姿勢はたぶん感情の模倣imitatio affectuumにも適用されているのであって,したがってスピノザはたぶん僕たちが人間以外のものの感情を模倣するということは想定していないだろうと僕は推測するのです。しかし実態は違っていて,吉田が指摘しているように人間は人間以外のものの感情も模倣しますし,それはスピノザの哲学の論理的帰結でもあるのです。
第27回黒船賞。
発走後しばらくは横並び。その中からシャマルが前に出ての逃げ。2番手にメイショウウズマサとアームズレイン。4番手にナムラフランクとエコロクラージュとエンペラーワケア。7番手にマイネルシトラスで8番手にラプタスとアラジンバローズ。3馬身ほど離れてコパノリッチマンとティアップエックス。5馬身差の最後尾にニクソンテソーロという隊列。超ハイペースでした。
3コーナーから逃げたシャマルが自然とリードを広げていき,単独の2番手になったアームズレインが必死に追っていきました。その後ろは下がっていったメイショウウズマサの外からエンペラーワケア。直線に入るとエンペラーワケアは内に進路を取り,コーナーワークでアームズレインと並びました。しかしこの競り合いは2着争い。直線でもシャマルはその競り合いを尻目に差を広げていき,楽に逃げ切って圧勝。エンペラーワケアが一旦は単独の2番手に上がりましたが,向正面から漸進し,直線は大外から追い込んだアランバローズが差して4馬身差で2着。エンペラーワケアが1馬身差の3着。

優勝したシャマルはかしわ記念以来の勝利で重賞7勝目。第25回,26回に続く三連覇で黒船賞3勝目。現状の能力ではエンペラーワケアがトップでしたが,この馬は東京競馬場が最も得意で,小回りコースに対応できるのかという不安を抱えていました。ここはその不安がもろに出た形。シャマルはむしろ小回りを得意としていますから,その分で逆転しました。すいすいと逃げたときの強さはかなりのもので,ここはその強さが存分に発揮される形となったため,序盤は後ろの方にいたアランバローズが2着まで追い込めたということでしょう。父はスマートファルコン。母の父はアグネスデジタル。祖母の父はダンスインザダーク。母の従妹に2022年のローズステークスと2023年の愛知杯を勝ったアートハウス。Shamalはペルシャ湾岸に吹く風。
騎乗した川須栄彦騎手は第26回からの連覇で黒船賞2勝目。管理している松下武士調教師は第25回,26回に続く三連覇で黒船賞3勝目。
今は自然権jus naturaeを考察しているわけではないですが,ここではそれと絡めて説明します。
スピノザの思想においては自然権は人間に固有の権利ではありません。むしろ現実的に存在するすべての個物res singularisに与えられている権利といわなければなりません。というのはスピノザの思想における自然権の原理は,第三部定理七のコナトゥスConatusに由来するのですが,その定理Propositioをみれば一目瞭然であるように,コナトゥスは人間に特有の現実的本性actualis essentiaではなく,自然Naturaのうちに現実的に存在するすべてのものの本性です。よってこれが自然権の原理であるなら,自然権は現実的に存在するすべての個物に付与された権利であるとみなければなりません。
したがって,人間が自分の利益utilitasに合致するように自然を利用していいのは,人間に固有の自然権によると解することができます。これと同じように,そうしたことが可能であるかは別として,馬は馬の利益に合致するように自然を利用していいということになりますし,地蔵は地蔵で地蔵の利益に合致するように自然を利用していいということになります。他面からいえば,人間は人間の利益だけを考慮すればいいのであって,馬や地蔵の利益を考慮する必要がないのと同じように,馬は馬で馬の利益だけを考慮すればよいのであり,人間の利益を顧みる必要はないということになるでしょう。そしてこれと同じことが,現実的に存在するすべての個物に妥当するということになります。
僕がここで佐藤の論文ではなく松田の論文を援用したのは,そこでは人間中心主義が自然中心主義と対立する考え方であると指摘されていたからです。僕はスピノザの思想の中には人間中心主義といわれる面があることを認めるといいましたが,この人間中心主義は,人間が考察するがゆえの人間中心主義であるという面があります。物理学の宇宙論の中に,人間原理宇宙論というのがありますが,スピノザの人間中心主義はそれと似た面があるのであって,人間が自己の利益suum utilisを考慮しているために,人間にとって都合のよい結論が出てくることになるといえます。したがってこの人間中心主義は,いわば人間原理の中心主義であって,原理の見方によるともいえます。
第71回桜花賞。
プラウドフレールの逃げになりました。2番手にツウエンティフォー。3番手はホーリーグレイルとリヴェルベロ。5番手にゼロアワー。6番手にエイシンマジョリカとモンゲーキララ。8番手にエスカティア。2馬身差で発馬後に寄られる不利があったイナダヒメ。3馬身差でウインハルモニアとフリーダム。4馬身差の最後尾にウィルシャインという隊列。ミドルペースでした。
3コーナーでプラウドフレール,ツウエンティフォー,リヴェルベロの3頭が雁行に。コーナーの途中でツウエンティフォーが後退していき,直線の入口ではプラウドフレールとリヴェルベロの併走。インを回ったホーリーグレイルが直線でこの2頭の間に進路を取り,3頭の争い。余裕をもって逃げていたプラウドフレールがリヴェルベロを引き離すとホーリーグレイルの追い上げも許さず鮮やかに逃げ切って優勝。ホーリーグレイルが1馬身半差の2着でリヴェルベロは2馬身差で3着。
優勝したプラウドフレールは前哨戦のユングフラウ賞に続く勝利で南関東重賞3連勝。ここは逃げに出た騎手の判断がよく,見た目以上の楽勝となりました。これで3歳牝馬の中でははっきりとトップに立ったとみていいと思います。レース内容からは距離の延長にも対応できるのではないでしょうか。母の父はネオユニヴァース。3代母がナイスレイズ。4つ上の半兄が一昨年と去年のフジノウェーブ記念を連覇した現役のギャルダルでひとつ上の半姉が一昨年のローレル賞を勝っている現役のミスカッレーラ。Fleurはフランス語で花。
騎乗した船橋の張田昂騎手はユングフラウ賞以来の南関東重賞10勝目。桜花賞は初勝利。管理している船橋の川島正一調教師は南関東重賞37勝目。桜花賞は初勝利。
スピノザは自身が人間以外のものに対する感情affectusに触発されていたと告白しているのですから,一般に人間が人間以外のものに対して感情を抱くことがあることは理解していた筈です。もちろんそうしたことも意識した上で,感情論を論述しているのは確かだと思います。それなのに,全体的な感情論の中では,人間の人間以外に対する感情をあまりに低く見積もっているし,ときには無視さえしていると僕は感じます。

この考察の中でいった第四部定理四五で,憎しみodiumを人間の人間だけに対する憎しみに限定しているような場合は,僕にもその理由がよく分かります。第四部定理四五で善bonumであり得ないといわれている憎しみは,人間の人間に対する憎しみだけに限定されなければならないということは,考察の中でみたように事実なのであって,だから限定することには大きな意味があるからです。さらにいえば,その備考でスピノザが憎しみを人間に対する憎しみに限定するとわざわざいっているのは,人間以外のものに対する憎しみがあるということをスピノザが認めていることの証明にほかならないといえますから,こういう場合に,感情論の中で感情を人間に対する感情だけに限定して考察することは,意味があることであって,僕はそれに異議を申し立てることはしません。
一方,必要以上に感情を人間に対する感情に限定している場面もいくつか見受けられます。ここではすでにみたことがある例として,第三部諸感情の定義二一の買いかぶりexistimatioという感情をみていきましょう。ここではスピノザはこの感情を,ある人間に対する愛amorのゆえに正当以上に感じることだと定義しています。しかし以前にこの感情について指摘したときにいったように,なぜこの感情をある人間に対する愛に限定しなければならないのかということが僕にはまったく理解できません。第三部諸感情の定義六にあるように,愛は外部の原因の観念を伴なった喜びLaetitia, concomitante idea causae externaeです。このとき外部の原因の観念というのを,人間の観念に限定する必要はまったくありません。これはスピノザも認めている筈で,人間は人間以外のものに対して愛という感情を抱くことはスピノザも肯定していると考えなければなりません。
昨日の第16回フジノウェーブ記念。
好発のマザオを外から追い抜いていったデュアリストの逃げでリードは2馬身。控えたマザオが2番手で3番手にはイグザルト。その後ろはギャルダルとティントレットとアウストロの3頭。その後ろがリコーシーウルフとイーグルノワール。さらにカールスパートとボイラーハウス。11番手にオメガレインボー。12番手にマックス。13番手にアドマイヤルプス。3馬身差でグランデマーレ。15番手にボンディマンシュ。4馬身差の最後尾にマースインディという隊列。最初の600mは35秒8のミドルペース。
3コーナーを回るとデュアリスト,マザオ,イグザルトは雁行になっていき,その後ろにギャルダルとティントレット。直線に入ると前の3頭からイグザルトが抜け出し,そこからは差を広げていく一方となって圧勝。デュアリストとマザオが2番手で競り合うところ,マザオの外からボイラーハウスが差し込んできて7馬身差の2着。マザオが1馬身差で3着。
優勝したイグザルトは南関東重賞初制覇。昨年6月までJRAで走って3勝。転入初戦のサンタアニタトロフィーで2着。その後の南関東重賞は連敗でしたが11月に距離を縮めてオープンで転入後の初勝利。その後は1200mを使って1着,3着ときていました。1200mも走れますが1400mの方がよいのでしょう。転入後の初勝利となったレースの2着馬がこのレースの3着馬そのときが5馬身差。概ねそれくらいの力関係で,圧勝になったのはほかの有力馬が力を出せなかったという面があったからかもしれません。勝ちタイムはとても優秀で,このタイムだけでみれば重賞でも通用しそうです。早いタイムが出る馬場の適性が高いのでしょう。父はドゥラメンテ。ひとつ下の半妹が2022年のファンタジーステークスを勝っている現役のリバーラ。Exultは歓喜する。
騎乗した大井の御神本訓史騎手は報知グランプリカップ以来の南関東重賞74勝目。第2回,4回,13回に続き3年ぶりのフジノウェーブ記念4勝目。管理している大井の荒山勝徳調教師は第11回以来となる5年ぶりのフジノウェーブ記念2勝目。
デカルトとスピノザのこの部分の相違を正しく理解するためには,注意しておかなければならないことがあります。デカルトもスピノザも同じように精神mensといっていますが,その意味が同じであるとはいえない面があるからです。
デカルトは人間のように思惟する主体subjectumとしてそれを精神といいます。人間のように思惟するのは,神Deusを別にすれば人間だけということになるでしょう。したがって精神を有する生物は人間だけであるということになり,人間以外の動物は精神を有さないということが必然的にnecessario帰結します。いい換えればデカルトにとって精神というに値するのは人間のように思惟する場合だけだということです。つまりデカルトは精神をその機能の側面から規定しているといえます。そしてこれは僕たちにとってもごく一般的な規定だといっていいでしょう。

スピノザの場合はこれとは違い,平行論あるいは同一説の観点,つまりある事物が知性intellectusの外に形相的有esse formaleとして存在すればその客観的有esse objectivumすなわち観念ideaが知性のうちにも存在するという第二部定理七系の観点から,平行論的にいえばその形相的有と客観的有は同一個体であるということになり,また同一説の観点からは事物の形相的有と客観的有は同一物のふたつの側面であるということになるということを前提に,この際の形相的有を事物の身体corpusといい,客観的有の方を事物の精神といいます。したがって精神がどのような機能を有しているのかということはまったく考慮に入っていないのであって,デカルトが機能的な観点から精神を規定しているのに対していえば,スピノザは構造的な観点から精神を規定していることになります。
僕の推測では,スピノザはこうした相違自体も考慮に入れています。スピノザは人間の精神を示すときにはmensというラテン語を用いますが,第二部定理一三備考ですべてのものが精神を有するといっているときの精神はmensではなく,スピノザの思想の全体でいえば魂とでも訳した方がいいanimataという語を用いているからです。いい換えればスピノザ自身も人間の精神についてはそれに特有の機能,ほかの動物は異なった機能を認めているのは間違いありません。
昨晩の第70回ダイオライト記念。
テンカハルは発馬後のダッシュが鈍く1馬身の不利。アウトレンジがハナに立ちましたが外から追い上げていったメイショウフンジンが競りかけていき,アウトレンジが引いたのでメイショウフンジンの逃げに。そこからペースが緩み,3番手のグランブリッジ,4番手のハイエストエンドまでは1周目の正面で前の2頭に追いついてきました。5馬身差でセラフィックコール。6番手にガルボマンボ。7番手はキリンジとミヤギザオウ。2馬身差でディクテオン。3馬身差でテンカハル。4馬身差でアンタンスルフレとキングオブザナイル。スマートウィザードは大きく離されました。最初の1000mは62秒8のハイペース。
3コーナーではアウトレンジが押しながら何とか2番手。この時点では3馬身ほど離れた3番手にいたグランブリッジが仕掛けると,コーナーで2頭を捲り切って先頭で直線に。グランブリッジは抜け出しましたが,グランブリッジより2馬身ほど後ろの4番手にいたセラフィックコールが猛追。フィニッシュ直前でグランブリッジを差し切って優勝。グランブリッジがクビ差の2着。逃げ粘ったメイショウフンジンが3馬身差で3着。
優勝したセラフィックコールは昨年のダイオライト記念以来の勝利で重賞3勝目。ダイオライト記念は連覇で2勝目。この馬はその後に大レースを3戦して好走できませんでしたので,能力の上限は明らかになってしまいましたが,ここはそれほど強力メンバーがおらず,なおかつ長距離戦はリピーターが活躍しやすいので,有力候補と考えていました。昨年が不良馬場での勝利でしたから,重馬場になったこともプラスに作用したのだと思います。母の父はマンハッタンカフェ。祖母がハルーワソング。母の5つ上の半兄が2011年のラジオNIKKEI賞を勝ったフレールジャックで4つ上の半兄が2014年に中日新聞杯と新潟記念を勝ったマーティンボロ。Seraphicは熾天使。

騎乗したミルコ・デムーロ騎手はダイオライト記念初勝利。管理している寺島良調教師は連覇でダイオライト記念2勝目。
それでは僕が考察してみたかったことに移りますが,実はこの点は,直前の考察と若干の関係を有しているといえなくもありません。それはスピノザが第四部定理四五備考でいっているような,この部分の憎しみodiumを人間の人間に対する憎しみに限定して説明している点です。これが人間の人間に対する憎しみに限定されなければいけないことは僕自身が考察した通りですから,スピノザが何か間違ったことをいっているわけではありません。むしろ憎まれるのが人間でない場合には,その憎しみが共同社会状態status civilisにとって有益utileであるという場合もあり得るからです。ただこの場合にみられるように,スピノザは感情affectusについて語るときに,妙に人間に限定して語りすぎるきらいがあるように僕には感じられるのです。吉田が虐待されているネコや破壊されている地蔵に対して感情の模倣imitatio affectuumをする例をあげたとき,僕はスピノザはたぶんそのようなことは想定していないという意味のことをいいましたが,僕がそのようにいったのは,まさにスピノザが感情について語るときには,人間に限定して語りすぎていると僕には思えるからなのです。
まずこの点が,スピノザの哲学全体の中でどのように考えられなければならないのかということを,総論的に考えておきます。
吉田が指摘していたように,デカルトRené Descartesは動物を自動機械automa spiritualeとみなします。デカルトの哲学はスピノザの哲学と異なり,精神mensに自由意志voluntas liberaの裁量が認められています。人間以外の動物が自動機械とみなされるのは,そうした自由意志が動物にあることをデカルトは認めないという意味です。自由意志は精神の裁量として認められているので,自由意志を認めないということと精神を認めないということは同じ意味です。つまりデカルトは精神というのは人間に特有のものであって,人間以外の動物には精神はないと主張しているのです。よってこれをスピノザの哲学に置き換えれば,人間以外の動物は物体corpusではあっても思惟の様態cogitandi modiではないというのがデカルトの主張であることになります。
スピノザはこのようには考えません。第二部定理一三備考でいわれているように,人間も含めたすべてのものは精神animataを有するのだとされます。
昨晩の第28回京成盃グランドマイラーズ。
好発だったリンゾウチャネルがそのまま逃げました。ムエックスとギガキングが2番手でギガースとサンテックスとデュードヴァンが4番手。2馬身差でフォーヴィスム。3馬身差でシシュフォス。3馬身差でビヨンドザファザー。3馬身差の最後尾にアイブランコという隊列。前半の800mは49秒8のミドルペース。
3コーナーで逃げたリンゾウチャネルと単独の2番手となっていたムエックスの差は1馬身。ここから直線の入口にかけて2頭が後ろに差をつけていき,4馬身差の3番手にギガキングとなり,ギガースとデュードヴァン,さらにサンテックスとフォーヴィスムが併走。直線に入るとムエックスが後ろを確認してから追い出し,リンゾウチャネルの前に出ました。追ってきたのはコーナーで大外を回らされたフォーヴィスム。他の出走馬より1秒以上早い上がりで追い込み,ムエックスを差し切って優勝。ムエックスがクビ差で2着。逃げ粘ったリンゾウチャネルが1馬身半差で3着。

優勝したフォーヴィスムはここが兵庫ゴールドトロフィー以来の出走。南関東重賞はスパーキングサマーカップ以来の2勝目。重賞を勝ったくらいですから能力は上位。休養明けだったことと,展開が必ずしも有利でなかったことから辛勝とはなりましたが,総合的にみれば2着馬に対しては着差以上の力量の差があったとみてよいと思います。かしわ記念を目指すことになると思われますが,メンバー次第ではチャンスもあると考えておいた方がよいのではないでしょうか。父はドゥラメンテ。Fauvismeは前世紀初頭にフランスで起こった絵画運動。
川崎の短期免許で騎乗している吉原寛人騎手は東京シンデレラマイル以来の南関東重賞39勝目。第18回以来となる10年ぶりの京成盃グランドマイラーズ2勝目。管理している川崎の内田勝義調教師は南関東重賞26勝目。京成盃グランドマイラーズは初勝利。
同じことはアラブ人にもいえます。アラブ人はユダヤ人に対してよりもアラブ人に対してより多くの感情の模倣affectum imitatioをするでしょう。したがってユダヤ人とアラブ人の間で諍いがある限り,ユダヤ人はユダヤ人の感情を模倣することによってアラブ人を憎むでしょうしアラブ人はアラブ人でアラブ人の感情を模倣することによってユダヤ人を憎むようになるでしょう。さらにそのような憎しみodiumが蓄積されていけば,第三部定理二三により,アラブ人はユダヤ人の感情を模倣しにくくなりユダヤ人はアラブ人の感情を模倣することが困難になります。これでは感情の模倣は共同社会状態status civilisにとって利益utilitasよりも害悪を齎すのは明白です。しかも第三部定理四〇により,憎しみは新たな憎しみを再生産する仕組みももっていますから,この憎しみの連鎖は無際限に続いていくことになります。よってこの感情の模倣に従う限り,ユダヤ人とアラブ人の間の憎しみの連鎖は,どちらかの民族が滅ぶということでもない限り,これからもずっと続いていくことになります。
この事例から理解できるのは,たとえある人に対しては愛amorも憎しみももっていなかったとしても,どれだけその人を同類とみなすことができるのかということは差異があるということです。したがって専制者の横暴によって戦争に巻き込まれた市民Civesを表象すれば,その人に何の感情ももっていなかったとしてもその人の悲しみtristitiaを模倣することになるのですが,その人をどこまで同類とみなすかによって,模倣の度合には差異が出てきます。むしろその市民より専制者の方を同類とみなしやすいケースさえあるわけですから,その場合はそのことによっていくらかの悲しみを感じるとしても,むしろ同類の敵対者とみなされることによって第三部定理二三の原理が働き,その悲しみを喜びlaetitiaをもって見つめるということさえ生じ得るのです。
このようにして,たとえそれが専制者に対するものであったとしても,専制者が人間である以上はその憎しみは善bonumであり得ないということになります。この憎しみは憎しみの連鎖を生じさせるだけであって,最終的には共同社会状態に対して利益を齎さず,害悪を与えるということになるからです。
24日に行われた桜花賞トライアルの第17回ユングフラウ賞。
前にいこうとしたのはツウエンティフォー,ゼロアワー,リヴェルベロ,エスカティアの4頭。最内のツウエンティフォーがハナを奪い1馬身半くらいのリードに。リヴェルベロが単独の2番手となり,ゼロアワーとエスカティアが3番手で併走。プラウドフレールが5番手でパトリオットゲームが6番手。この後ろをモンゲーキララ,フリーダム,ウィルシャインの3頭で併走。3馬身差でナーヴィスゼーダとアメストリスが並び最後尾にサティスファイア。最初の600mは36秒9のミドルペース。
直線の入口ではツウエンティフォーとリヴェルベロが併走となりその後ろがエスカティアとプラウドフレール。この中でプラウドフレールの勢いがよく,すぐに先頭に立つと抜け出して快勝。前を捌けず遅れて追い出されたゼロアワーが逃げ粘るツウエンティフォーを差して1馬身半差で2着。逃げたツウエンティフォーが4分の3馬身差で3着。
優勝したプラウドフレールは東京2歳優駿牝馬からの連勝で南関東重賞2勝目。東京2歳優駿牝馬,ユングフラウ賞と連勝したわけですから,桜花賞は最有力候補でしょう。ただこのレースは外枠からスムーズにレースを進められたのに対し,ゼロアワーは苦労していましたから,逆転の可能性もある程度はあると思われます。母の父はネオユニヴァース。4つ上の半兄が一昨年と昨年のフジノウェーブ記念を連覇している現役のギャルダルでひとつ上の半姉が一昨年のローレル賞を勝っている現役のミスカッレーラ。Fleurはフランス語で花。
騎乗した船橋の張田昂騎手は川崎マイラーズ以来の南関東重賞9勝目。第14回以来となる3年ぶりのユングフラウ賞2勝目。管理している船橋の川島正一調教師は南関東重賞36勝目。ユングフラウ賞は初勝利。
自身の感情affectusの真の原因causaが自身にも分からなくなってしまうようなことが生じる要因を,スピノザはふたつの法則が働くからだといっていると吉田は指摘しています。ふたつの法則のうちのひとつが模倣imitatioで,もうひとつが連想associtatioです。ここでは感情の模倣imitatio affectuumを考察の中心として取り上げたいのですが,吉田は連想を先に考察していますので,それをみておきましょう。なお,僕が事前に感情の要因が現実的に存在する人間においては複雑になるということを示した部分は,この連想の方と大きな関係を有しています。というのは現実的に存在する人間がある表象像imagoから別の表象像へと移行することは,連想そのものといっていいからです。つまりこのことについては僕はすでに僕の仕方で説明したのですが,それを吉田がどう探究しているかを確認するということになります。

吉田は連想がある感情と結びつくメカニズムを,本来は現実的に存在する人間が刺激された感情と無関係である筈の事物が,たまたまその感情に刺激されたときにそこに現実的に存在した,あるいはそのように表象されたということによって,いってみれば巻き添えのような形で,その感情の原因となってしまう場合として説明しています。これは僕の説明とは異なった事例といえるでしょう。吉田が具体例として指摘しているのは以下のようなものです。
ある人間がだれか大切な人を亡くしてしまい悲嘆にくれているとき,葬儀で大量の菊の花を目撃したとします。この菊の花とこの人の悲しみtristitiaは,本来的にはまったく関係がないといわなければなりません。しかしこの人はこれ以降,菊の花を表象するimaginariたびごとに,深い悲しみを感じるということがあり得ます。これはこの人の中で,菊の花の表象像が,大切な人の葬儀の表象像と連結したからで,菊の花を見ると葬儀のことを連想し,それで悲しみを感じるというメカニズムが働くようになるからです。これはごく簡単なメカニズムですから,その当人が菊の花を表象することによって悲しみを感じることがなぜなかが分からないというほどではないでしょう。しかし菊の花はたまたま葬儀のときに表象されただけですから,連想であることに違いはありません。
昨日の第27回かきつばた記念。
先手を奪ったのはエートラックス。ロードフォンスとシャマルが2番手でサントノーレとペイシャエスが4番手。6番手のサンライズホークまでが集団。2馬身差差でサヴァ。マスクトライとメルトが並んで追走し,6馬身差の最後尾にセイヴァリアントで発馬後の正面を通過。ミドルペースでした。
向正面で内からロードフォンスが上がっていくと外からシャマルも応戦。3コーナーで逃げたエートラックスを間に挟んで3頭が併走になりましたが,エートラックスに挟まれる不利があったようで後退。ロードフォンスのさらに内からサンライズホークが追い上げてきました。サンライズホーク,ロードフォンス,シャマルの競り合いからはシャマルが脱落。2頭はフィニッシュまで競り合い,外のロードフォンスが制して優勝。サンライズホークがクビ差で2着。シャマルのさらに外から追い込んできたペイシャエスがクビ差の3着でシャマルは1馬身半差の4着。
優勝したロードフォンスは重賞初制覇。重賞初挑戦だった前走の根岸ステークスは離されたとはいえフェブラリーステークスを勝ったコスタノヴァの2着。前々走はオープンを勝っていたこともあり,実績馬を差しおいて1番人気の支持を集めていました。快勝とはいきませんでしたが,初めてとなる小回りコースに対応できたのは大きく,今後の展望が広がりそうです。父はロードカナロア。母の父はダイワメジャー。
騎乗した横山和生騎手と管理している安田翔伍調教師はかきつばた記念初勝利。
表象像imagoの連結connexioは『エチカ』の中でいくつかの仕方で説明されているのですが,ここでは考察の便宜上,感情の模倣imitatio affectuumとはあまり関係を有さない部分として,第二部定理一八備考を援用しておきましょう。

この備考Scholiumでいわれている様式によって,現実的に存在する人間の表象像は,Aの表象像からBの表象像へ,そしてまたCの表象像へと次から次へと移り変わっていくことになります。このような仕方でたとえば最後にDの表象像に至ったとして,そのDを表象するimaginariことによって何らかの感情affectus,たとえばXという感情に刺激されたとしましょう。この人間がXという感情に刺激されるafficiのは,Dを表象したからです。なのでXの感情に対してDの表象像だけがその人間の中で原因causaを構成しているかといえば,必ずしもそうはいえないことは明白でしょう。なぜならこの人間がXという感情に刺激されたのは,いい換えればDを表象したのは,まず最初にAを表象したからであり,そのAの表象像から次々と表象像が移行し,最終的にDの表象像に至ったからだといえるからです。なので,たとえこの人間が最初にAを表象したときにはXという感情には刺激されていなかったとしても,もっと分かりやすく何の感情に刺激されていなかったとしても,Aの表象像はこの人間がXという感情に刺激されるときの原因である,少なくとも原因の一部を構成しているということができるでしょう。そしてこのことは,AからDへと至る間のすべての表象像にも妥当するでしょう。このようなわけで,単一の表象像がある定まった感情の原因であるという場合よりも,複数の表象像がひとつの感情の原因を構成するということが,現実的に存在する人間の場合には多くなるのです。僕が第二部自然学②要請三を原理的説明の主要部分であるといったのはこのような意味においてです。
それでは吉田の探究に戻ります。
実際の現実的に存在する人間の感情というのは,ひとつの原因に絞れるものではなく,僕が示したようなもっと複雑な原因が錯綜しているのであって,あまりにも錯綜しているため,感情に刺激されている当人にも,本当の原因が分からなくなってしまうということがあり得ます。
高知から1頭が遠征してきた昨日の第42回フェブラリーステークス。
逃げたのはミトノオー。ウィリアムバローズ,サンデーファンデー,アンモシエラ,デルマソトガケの順で差がなく続き,押さえながらミッキーファイト。さらにエンペラーワケアとコスタノヴァ。さらにペプチドナイル,ドゥラエレーデがいてタガノビューティーとガイアフォース。さらにサンライズジパングとヘリオス。メイショウハリオまでの15頭は集団。アーテルアストレアだけが3馬身ほど離されました。最初の800mは47秒2のミドルペース。
直線の入口ではミトノオー,ウィリアムバローズ,サンデーファンデーで雁行。ここから直線で前に出たのはサンデーファンデーでしたが,すぐに外からコスタノヴァが先頭に。コスタノヴァを追ってきたのは内からサンライズジパングとエンペラーワケアで外からミッキーファイトとペプチドナイル。しかし4頭ともコスタノヴァには追いつくことができず,優勝はコスタノヴァ。最内のサンライズジパングが4分の3馬身差で2着。ミッキーファイトが1馬身4分の1差の3着で大外のペプチドナイルがクビ差で4着。エンペラーワケアが半馬身差で5着。
優勝したコスタノヴァは根岸ステークスから連勝で大レース初制覇。このレースはチャンピオンズカップからの直行組か前哨戦の勝ち馬が強いレースで,その傾向に合致していました。とくに東京コースの実績が豊富でこれで6戦して6勝。今後が楽しみな馬ではありますが,距離やコースも含めて出走するレースの選択はやや難しいところがあるかもしれません。父はロードカナロア。母の父はハーツクライ。母の5つ上の半兄に2012年に佐賀記念と浦和記念を勝ったピイラニハイウェイ。
騎乗したオーストラリアのレイチェル・キング騎手は日本での大レース初制覇。管理している木村哲也調教師は有馬記念以来の大レース13勝目。フェブラリーステークスは初勝利。
吉田の講義はそのまま本論に入っていますので,ここは僕の方から補足の説明を入れておきます。

僕たちが何らかの感情affectusを抱くときに,その原因causaが単純ではなく複雑なものになることの要因を原理的に説明するのは,第二部自然学②要請三です。これにより,僕たちの身体corpusが,多様な物体corpusから多様の仕方で刺激を受けるafficiことが理解できます。
第二部定理一七は,僕たちが外部の物体から刺激を受けると,その物体の表象像imagoが僕たちの精神mensのうちに生じることを示しています。したがってこれらを合わせると,僕たちの精神のうちには多種多様な物体の表象像が生じることになります。
第二部公理三の意味は,僕たちの精神のうちに生じる思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念ideaであり,観念を肯定したり否定したりする意志作用volitioであるということです。したがって,僕たちの精神のうちに何らかの表象像が生じたからといって,僕たちは必ず何らかの感情に刺激されるafficiというものではありません。このことは第三部要請一から明らかだといわなければなりません。ただ,思惟の様態のうち第一のものが表象像をはじめとする観念である以上,感情もまた第三部定義三により思惟の様態としてみることができるわけですから,僕たちは表象像を形成すればするほど,何らかの感情に刺激されることもそれだけ増えていくことになります。そして僕たちは現に多種多様な物体の表象像を形成するわけですから,僕たちが何らかの感情に刺激される割合は非常に高くなっているといえます。
第二部定理一七は,ある表象像は別の表象像が出現すると排除されるということも意味しています。したがってAの表象像はBの表象像が僕たちの精神のうちに生じれば除去されることになります。そこでこのときに,Aの表象像からはXという感情に刺激され,Bの表象像からはYの感情に刺激されるという具合に,各々の表象像がある特定の感情に関連付けられているとすれば,僕が原理的といった方法によってすべての感情の発生を説明することができることになります。ところが事情はそのようになっていないのです。というのは,表象像と別の表象像が関連付けられることがあるからです。
第7回雲取賞。
キングオブワールドは両サイドの馬から挟まれる発馬で1馬身の不利。すぐにスマイルマンボが先頭に。2番手は1コーナーを出たあたりでシビックドリームとアクナーテンの併走となり,4番手もリコースパローとジャナドリアで併走。3馬身差でケンシレインボー。以下は1馬身差でグランジョルノ,タイセイカレント,ペピタドーロと続き,4馬身差でプレミアムハンド。向正面で巻き返していったキングオブワールドがその直後まで追い上げ,5馬身差の最後尾にオンリーユーズドという隊列に。最初の800mは50秒7のミドルペース。
3コーナーからスマイルマンボ,シビックドリーム,アクナーテンが雁行となり,さらに外からジャナドリア。コーナーワークで直線ではスマイルマンボが一旦は差を広げましたが,外を回ったジャナドリアが追い上げ,残り100m付近でスマイルマンボを差し,そのまま抜け出して優勝。勝ち馬のさらに外から追い上げてきたグランジョルノが1馬身4分の3差で2着。逃げたスマイルマンボが4分の3馬身差で3着。
優勝したジャナドリアはデビューから3連勝で重賞制覇。1勝クラスの勝ち方が強かったので,実績はあるグランジョルノよりも能力は上で,最有力候補ではないかとみていました。末脚が確かな馬ですが,ここはわりと前の位置でレースを進められ,それがより生きる展開に。ダートのクラシック路線を目指すとのことで,有力馬になったといえるでしょうが,速いタイムに対しての裏付けはまだありませんから,速いタイムが出るような馬場状態になったときに対応できるのかという点は未知数です。父は2017年のJRA賞で最優秀ダートホースに選出されたゴールドドリームでその父がゴールドアリュール。11歳上の半姉が2014年に関東オークスを勝ったエスメラルディーナ。Janadriyahはサウジアラビアの祭典。
今年からSPAT4のPOGはJRA所属馬も指名できるようになりました。ジャナドリアは僕の指名馬です。指名馬に対する評価である点に留意してください。

騎乗したクリストフ・ルメール騎手と管理している武井亮調教師は雲取賞初制覇。
表現として個物res singularisを産出しないような神Deusは存在しません。一方で神なしには,第一部定理二五系でいわれているような神を表現するexprimuntur表現者としての個物Res particularesはあることも考えるconcipereこともできません。つまりスピノザの哲学においては表現を介在して神と個物は表裏一体の関係にあると吉田は指摘しています。この指摘も,ドゥルーズGille Deleuzeと一致しています。そしてこのように解するときに重要なのは,この表現のイニシアチブがどちらかにあるというわけではないということです。再び画家の例を用いれば,画家は絵画を描かずにはいられないのですから,描くという表現においてイニシアチブを握っているとはいえません。しかし画家が描かなければ絵画は存在し得ないのですから,絵画がイニシアチブを握っているとはいえないでしょう。これと同じように,神は自身の力potentiaを表現しないことはできないのですから,この表現においてはイニシアチブを握っているわけではありません。しかし神が力を表現しなければ個物は存在し得ませんから,個物がイニシアチブを握っているともいえないのです。
よって神と個物の関係は,表現を介して,同時発生的でかつ同源的な関係にあると考えなければなりません。したがって,スピノザの哲学において世界の存在existentiaというのは,神と個物の関係を創造主creaturaと被造物creatorとみた場合に示されたような,どこか余計な存在ではありません。むしろ世界のうちにあるありとあらゆる個物は,そしてその個物の総体としての世界というのは,その本性essentiaに存在が含まれているもの,第一部定義一における自己原因causam suiではないものの,たとえばライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizがそういうような神の善意とか,あるいはデカルトRené Descartesがそういうような神の自由意志voluntas liberaといったようなものでたまたま,そういってよければ気まぐれに存在しているというわけでもないのであって,個物モードの神として,神自身の力によって必然的にnecessario存在しているのです。つまりスピノザの哲学における世界というのは,神による被造物などではありません。むしろそれは世界モードの神,書簡六十四でスピノザ自身が示しているような,間接無限モードとしての神そのものなのです。
この部分の考察はこれで終了とします。
昨晩の第71回クイーン賞。ライオットガールが左の後ろ脚の痛みで歩行にバランスを欠いたため出走取消となり7頭。
アンモシエラが逃げてオーサムリザルトが2番手でマーク。2馬身差で行きたがるのを宥めつつフェブランシェが続き1馬身差でテンカジョウ。3馬身差でキャリックアリード。2馬身差でポルラノーチェとドライゼが併走。最初の800mは50秒2のスローペース。
3コーナーを回るとアンモシエラにオーサムリザルトが並びかけていき,その後ろは外にフェブランシェで内からテンカジョウ。直線に入ると前の2頭が後ろとの差をやや広げ,ほどなくして外のオーサムリザルトがアンモシエラを差して先頭。そのまま抜け出して優勝。逃げたアンモシエラが1馬身差で2着。テンカジョウとフェブランシェの外からキャリックアリードが追い込んできて3着争いは3頭。インを回ったテンカジョウが半馬身差の3着。外を追い込んだキャリックアリードがクビ差の4着でフェブランシェが半馬身差で5着。
優勝したオーサムリザルトは,レースへの出走はブリーダーズゴールドカップ以来。重賞は3連勝でデビューからの連勝も8に伸ばしました。実績ではこの馬よりも上の馬もいたのですが,トップハンデを課せられていたように能力は上位。船橋のような直線が短いコースに出走するのは初めてでしたが,コーナー自体は川崎ほどきつくはないので,難なくこなしました。国内で牝馬戦に出ている限りは当分は勝ち続けることができるのではないかと思いますし,たぶん牡馬が相手でも通用すると思います。

騎乗した武豊騎手は第48回,50回に続く21年ぶりのクイーン賞3勝目。管理している池江泰寿調教師はクイーン賞初勝利。
僕が主張しているのは,第一部定義六で示されている神Deum,絶対に無限なabsolute infinitum実体substantiamであり,無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性essentiamを構成されている実体を,余すところなく十全に表現するexprimere観念ideaは存在しないということではありません。スピノザの哲学は平行論,僕は平行論説を採用するのでここでは平行論といいますが,これを同一説と解しても同じ結論になりますが,そうした論理を採用しているがゆえに,一般的にXが形相的有esse formaleとして,いい換えれば知性intellectusの外に存在するのであれば,Xの客観的有esse objectivumすなわちXの観念が存在するということは基本的なテーゼでなければならないと僕は考えますし,逆にXが客観的有すなわち十全な観念idea adaequataとして実在するのであれば,その観念の観念対象ideatumであるXが知性の外に形相的有として存在しなければならないということも同様の基本的テーゼであると考えます。そして第一部定理一一でいわれているように神は実在します。そしてとくにその第三の証明は,神が絶対に無限であるということから帰結しています。つまり絶対に無限な実体としての神は存在するのであって,それは単に形相的有として存在するという意味でなく,客観的有としても存在するということでなければならないのです。僕がいっているのは,そうした神の観念が実在するということと,現実的に存在する人間がその観念を十全に認識するcognoscereということは別のことであって,それを混同してはならないのではないかということです。
第二部定理七系によれば,神の本性から形相的にformaliter生じることは,神の観念Dei ideaから客観的にobjective生じます。したがって,神の無限知性intellectus infinitus,これは思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態に該当しますが,その無限知性のうちに神の観念があるとすれば,その神の観念は第一部定義六で示されている神を余すところなく表現する観念でなければなりません。それは僕たちには認識することができない神の観念であるといわなければならないと僕は考えているわけですが,僕たちには認識することができない類の神の十全な観念が,神のうちには少なくともなければならないと僕は考えます。そしてこのこともまた,僕たちは十全に理解するintelligereことができるというように僕は考えています。
昨晩の第52回佐賀記念。
逃げる構えを見せたのはメイショウフンジンとグロリアムンディとクラウンプライド。2馬身差でノットゥルノ。5番手にヒロシゲウェーブとシンメデージー。7番手にデルマソトガケ。2馬身差でシルトプレ。3馬身差でタケノサイコウ。2馬身差でサトノスライヴ。2馬身差の最後尾にララエフォールで発馬後の向正面を通過。前はメイショウフンジンの逃げとなり,クラウンプライドが2番手。グロリアムンディが3番手となりました。超スローペース。
3コーナー手前からクラウンプライドは後退。3コーナーではメイショウフンジン,グロリアムンディ,ノットゥルノの3頭が集団になり,4番手にはシンメデージー。直線に入る前にグロリアムンディは苦しくなり,直線入口ではメイショウフンジンがまた単独の先頭。ノットゥルノの外からシンメデージーが追ってきたものの届かず,逃げ切ったメイショウフンジンが優勝。シンメデージーが2馬身差で2着。ノットゥルノがクビ差で3着。
優勝したメイショウフンジンは重賞初勝利。このレースはかなり混戦で上位拮抗とみていましたが,コーナーが6回のレースなので,そのコース形態の適性の差が出るかもしれないと思っていました。重賞は初制覇ですが好走した経験は何度もあり,それは2着馬にも3着馬にも該当するところなので,たぶんその点は結果に影響しただろうと思われます。逃げてペースを落としつつ自由にコースを選択できたことも有利に働いたでしょうから,同じメンバーでも展開次第で次は同じ結果になるというわけではないでしょう。父は第40回を制したホッコータルマエで父仔制覇。
騎乗した酒井学騎手と管理している西園正都調教師は佐賀記念初勝利。
吉田はこのように説明していますが,これは属性attributumという語が一般的に使用される場合の説明なのであって,スピノザの哲学においては該当しません。先回りすることになりますが,なぜ妥当しないのかを僕が説明します。端的にいえば,スピノザの哲学における属性というのは,ある特殊な意味を有しているのです。

第一部定義四にあるように,属性とは実体substantiaの本性essentiamを構成するもののことをいいます。この定義Definitioは認識論的な観点から記述されていますが,実在論的に解して問題ないということはかつて検討した通りです。第二部定理一と第二部定理二は,明らかに認識論的な観点だけを意味するわけではありません。
次に,第一部定理一四にあるように,自然Naturaのうちに実在する実体は神Deusだけなのですから,実在する属性はすべて神の本性を構成することになります。第一部定義六では,神の本性は無限に多くの属性infinitis attributisによって構成されるといわれていて,実際にはこの定義から実在する実体は神だけであるということが導かれるわけですが,ここではその順序は問いません。属性はそれがどんなものであっても実在的には神の本性を構成するのです。
では本性とは何かといえば,第二部定義二にいわれるように,あるものがなければそれが,逆にそれがなければあるものが,あることも考えるconcipereこともできないようなもののことです。したがって神と属性の関係は,属性がなければ神はあることも考えることもできないものであり,同時に神がなければ属性はあることも考えることもできないという関係を有しています。属性というのは無限に多くあるとされていますが,これはそのうちのどの属性を抽出したとしても成立しなければなりません。たとえば延長の属性Extensionis attributumがなければ神はあることも考えることもできないのですが,神がなければ延長の属性はあることも考えることもできないのです。
延長の属性は神の本性を構成する属性のひとつなので,神がなければ延長の属性があることも考えることもできないのは明白です。延長の属性を認識するcognoscereとは神の本性を認識するという意味だからです。しかしこの延長の属性がなければ,神はあることも考えることもできないのです。
高知から1頭が遠征してきた川崎記念トライアルの第61回報知オールスターカップ。
発馬後はランリョウオー,ヘラルドバローズ,ヒーローコール,ライトウォーリアの4頭が並びその後ろにキャッスルブレイヴ,プラセボ,シシュフォス,ジョエルの4頭。この後ろは6馬身ほど離れてデルマルーヴルとマンガン。テンカハルがその直後。3馬身差でペルマナントとゲンパチハマジ。2馬身差の最後尾にドスハーツ。前の4頭からヒーローコールが前に出て単独の逃げとなり,ライトウォーリアが2番手。3番手となったランリョウオーの外に,2列目にいたプラセボが並んで1周目の正面を通過。超ハイペースでした。
単独の先頭に立った後,ヒーローコールのリードは1馬身から2馬身の間で終始。3コーナーでは1馬身くらいになり直線の入口ではライトウォーリアがほぼ並びました。ライトウォーリアがやや外に出たので,直線は離れた2頭の競り合い。どちらも一杯になっていましたが,ヒーローコールが逃げ切って優勝。ライトウォーリアが半馬身差で2着。これ以外の前にいた馬は直線入口の時点ですでに離れ気味。中団から外を追い込んだテンカハルが4馬身差で3着。

優勝したヒーローコールは一昨年の戸塚記念以来の勝利で南関東重賞5勝目。年上の世代と対戦するようになってからは勝てていませんでしたが,それなりに安定した成績を残していました。ここは無理にでも先手を奪ったのが勝因で,現状はスタミナ勝負にした方が好走しやすいということなのだと思います。父はホッコータルマエ。フロリースカップ系サンマリノの分枝で,母の2つ上の半兄に2001年の函館2歳ステークスを勝ったサダムブルースカイ。
騎乗したJRAの内田博幸騎手は2010年の羽田盃以来となる南関東重賞制覇。第38回,42回を制していて報知オールスターカップは3勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞71勝目。報知オールスターカップは初勝利。
それでは吉田の論考に戻ります。
第一部公理一の意味は,自然Naturaのうちに存在するものは実体substantiaであるか,そうでなければ実体の変状substantiae affectioすなわち様態modiであるかのどちらかであるということです。しかるに第一部定理一四により,自然のうちに実在する実体は神Deusだけなのですから,自然のうちに存在する神以外のものはすべからく様態であるということになります。ですからネコもイヌもウマもすべて様態であるというのがスピノザの考え方です。そして様態というのは実体の変状,すなわち神の変状ですから,ネコというのは神がネコのようなあり方をとった状態,あるいは同じことですが,ネコのような状態をとった神であるということになります。吉田のいい方に倣えば,ネコとはネコモードの神であるということになります。
当然ながらこのことはネコにだけ限定していえることではありません。この世界を構成している諸々の個物res singularisは,それが生物であろうと無生物であろうと同じように神である実体の様態として存在していることになります。これは第一部定理二五系でいわれていることです。吉田はこのような考え方をすることで,スピノザは世界そのものの存在論的な意味での位置づけを大きく変更したといっています。ことのついでですから,この点についてもみていくことにします。
ユダヤ教あるいはキリスト教的な位置づけ,あるいはデカルトRené Descartesもそれに倣っているといえる神と個物の位置づけ,これは何度も繰り返すようですが創造主creaturaと被造物creatorという位置づけですが,創造主の意志voluntasによって被造物が産出されるという発想は,世界の存在existentiaの恣意的な性格が強調されることになると吉田はいいます。これはデカルトが採用した連続創造説のことを思い出せば明白であるといえるでしょう。この発想だと,そもそもこの世界は存在しなかったということもあり得たし,またいつなくなってしまったとしてもおかしくなかったのだけれども,神がその気になったことによりこの世界は産出されることになったし,また今もその気になっていることによって現にこの世界が存在し続けているということになるからです。この場合,潜在的には世界の存在は余計なものになります。