スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

金亀杯争覇戦&第五部定理二八証明

2016-03-29 19:07:23 | 競輪
 松山記念の決勝。並びは山崎‐小野の福島,平原‐中村の関東,松谷‐片寄の南関東,脇本‐村上の近畿で浅井が単騎。
 スタートを取ったのは脇本。やや乱れましたが前受けになりました。浅井はこのラインを追走するレースに。4番手に山崎,6番手に平原,8番手に松谷という周回に。残り3周のバックの半ばから松谷が動き,コーナーで脇本を叩きました。平原,山崎の順で続いて引いた脇本が7番手の一列棒状でホームを通過。すぐに脇本が反撃開始。バックで松谷を叩いて打鐘。松谷は村上の後ろを狙いましたが浅井が阻み,4番手まで引いてホームに。ここから平原が発進。脇本との争いがバックまで続き,ようやく平原が前に。ここに中村をどかした村上がスイッチ。さすがに脚を使っていた平原に余力はなく,直線では村上が先頭。しかしマークの浅井が外から差し込んで優勝。村上が8分の1車輪差で2着。浅井の後ろから内目を回った松谷が2車身差で3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は先月の奈良記念に続いて記念競輪17勝目。松山記念は初優勝。ここは超細切れ戦で単騎に。逆にいえば好きなところを自由に回れるので,タイプ的にはむしろ向くのではないかと思いました。脇本の先行と読んでの近畿ライン追走であったと思いますが,その読みが正しかったことが優勝を大きく引き寄せたといえるでしょう。脇本と平原の争いが長引いたため,展開的に最も向いたのは山崎ではなかったかと思いますが,結果論ですが出ていくタイミングが悪く,外に振られる形になってしまいました。山崎にとってはちょっと残念なレースだったのではないかと思います。

 僕はかつて第二部定理四〇をテーマに据えたとき,この定理Propositioには4つの意味があるのであって,それらの意味がすべて成立していることを検証しました。そのことから明らかなように,僕たちの精神mensのうちにある十全な観念idea adaequataは,同じように僕たちの精神のうちにある別の十全な観念のみから生じるのであって,僕たちの精神のうちにある混乱した観念idea inadaequataから生じるということはありません。ところで第三部諸感情の定義一が明らかにしているように,僕たちの欲望cupiditasというのは,僕たちの身体corpusの刺激状態ないしは僕たちの精神mensのうちにある自分の身体の刺激状態の観念affectiones corporisによって,何事かをなすように決定される限りにおいて僕たちの本性essentia,この場合には現実的本性actualis essentiaのことです。したがって,第三種の認識cognitio tertii generisというのは,個物res singularisの本性の十全な認識のことなので,僕たちの精神のうちにその認識へと向かう欲望が与えられるのは,僕たちの精神のうちに十全な観念が与えられるということによってなのであり,混乱した観念が与えられたとしてもそういう欲望が発生することはあり得ません。したがって,何らかの第三種の認識によって僕たちに与えられた観念から,別の第三種の認識を志向する欲望が生じることがあり得るのは当然ですが,第二種の認識cognitio secundi generisも十全な認識なのですから,この認識から第三種の認識を僕たちの精神が欲望するということもあり得ることになります、しかし第一種の認識cognitio primi generisは混乱した認識なので,その認識からは僕たちの精神を第三種の認識へと導く欲望は発生し得ないということになります。これで第五部定理二八は論証されたといえるでしょう。
                                    
 論理的に記述すればこの通りではありますが,実際にはスピノザがその証明Demonstratioの冒頭にいっている通り,このことはそれ自体で明白だといっていいでしょう。したがって第二種の認識と第三種の認識,あるいは認識の様式に注目した場合の推論と直観scientia intuitivaの間には,一方が他方を否定し得るような関係はまったくないことになります。そして『エチカ』の倫理の最高の目標が第三種の認識であり,『エチカ』が第二種の認識を基礎として記述されていても,それは最高目標への欲望を生じさせ得る記述であるということになります。
コメント
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