スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

瑞峰立山賞争奪戦&スピノザ哲学論攷

2017-06-27 19:08:03 | 競輪
 富山記念の決勝。並びは木暮‐牛山の関東,郡司‐和田の南関東,浅井に浜田,山田‐村上の京都に池田。
 スタートを取ったのは浜田。バックにかけて外から牛山が上昇していきましたが浜田が拒み浅井の前受けに。3番手に山田,6番手に郡司,8番手に木暮の周回に。残り3周のホームから木暮が上昇。郡司が牛山の後ろにスイッチ。バックの入口で木暮が浅井を叩きました。バックの出口から郡司が上昇。木暮を叩いてそのまま誘導を外すとホームで浅井が動いていって郡司を叩き,その外から山田が発進。浅井を叩いて前に出るとバックでは山田ライン,浅井ライン,郡司ライン,木暮ラインの一列棒状に。打鐘前から山田が全開で駆けていき,村上は早くも車間を開けました。ホームから木暮が動いていき,被せられた郡司は行き場がなくなりました。浅井が木暮に合わせて発進しようとするも外の木暮が前に。バックから村上が番手発進で対抗しましたがコーナーでは木暮が捲り切りました。ただ木暮もかなりの脚を使っていたために直線ではマークの牛山が差して優勝。木暮が半車身差の2着で関東のワンツー。最終的にインを突いた郡司の勢いをもらって外を伸びた和田が1車輪差で3着。
 優勝した茨城の牛山貴広選手は記念競輪初優勝。このレースは山田の先行は予想されたところ。ただ,ほかのラインの先頭を回る選手の脚力を考えれば,番手の村上があっさりと優勝するという可能性はむしろ低いのではないかと見立てていました。郡司は明らかな失敗レースになりましたので,浅井か木暮かといったところですが,バックでの両選手の競り合いをみると,現状は浅井が木暮に力負けしたという感じがします。それだけ木暮の調子がよかったということではないでしょうか。その好調さが牛山の初優勝を齎したというレースであったと思います。

 『スピノザ哲学論攷』はやや変わった構成になっています。最初から最後まで通して読むことができる1冊の書籍であると同時に論文集でもあるのです。意味が分からないかもしれませんが,本文のうちのおよそ半分程度は河井がこの本としてまとめる以前に発表した論文によって構成されているのです。
                                    
 河井はそのうちのいくつかを骨子としてまず1985年にひとつにまとめました。さらにそれ以降,1992年までに,そのまとめた部分の中から未発表の部分を抜粋し,少し手を加えながら論文として発表していきました。これが『スピノザ哲学論攷』の半分を占めるということです。『スピノザ哲学論攷』の原案というべき本論の全体が完成したのは,1985年の時点であったのか,あるいは1992年以降にも加筆したのかは,河井の説明の仕方では僕には不明でしたが,その全体は,学位論文として筑波大学に受理されました。
 『スピノザ哲学論攷』として出版されたのは1994年6月です。河井によるとこれは学位論文として受理されたものにさらに若干の加筆をして,学位論文には添えられていなかった副題を付けたものだということです。
 ですから河井の当初の目的は,最初から最後まで連関した論考であるということになります。とはいえ,部分的には個別の論文として抜粋されている部分があるので,たとえばある部分においては探求されているけれども,それが全体の中ではきわめて限定的になっているというところもなくはありません。一方で,単に論文集として,つまり個別の論文として発表した場合には,ある論文と別の論文がいかなる点において関係してくるかということは,この本のように全体としてまとめ上げられている場合と比べれば分かりにくくなってしまうでしょう。ですから,このような方法で発表することは,方法論としていえば一長一短があるとはいえると思います。ただ,『スピノザ哲学論攷』の場合についていえば,この方法は概ね成功しているのではないかと僕は思います。これは原案となっているのが学位論文ですから当然といえば当然かもしれませんが,河井の志向が首尾一貫しているからだとも思います。
コメント
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