スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

皐月賞&憎しみによる審判

2018-04-15 18:54:49 | 中央競馬
 第78回皐月賞
 押していったアイトーンがハナに。好発だったジェネラーレウーノに追い上げたジュンヴァルロが並び掛けて2番手は併走。この3頭で後ろを10馬身以上引き離すレースになりました。単独の4番手がエポカドーロ。5番手にケイティクレバーとサンリヴァル。7番手がマイネルファンロンで8番手にスリーヘリオス,タイムフライヤー,ダブルシャープの3頭。11番手はオウケンムーンとジャンダルム。13番手以下はワグネリアン,グレイル,ステルヴィオ,キタノコマンドールの順で追走。前半の1000mは59秒2の超ハイペース。
 3コーナーを回っても前の3頭と4番手との差は10馬身ほど。ここからようやく差が詰まっていきました。前の3頭の中から抜けたのはジェネラーレウーノ。離れた4番手で追走していたエポカドーロが,追いついていく勢いのままジェネラーレウーノを楽々と抜き去り,そのまま抜け出して優勝。エポカドーロの後ろからそれを追うように上がっていったサンリヴァルが2馬身差で2着。これらより後ろの馬は3着争いが精一杯。しかし1馬身4分の3差の3着も先行3頭から抜け出していたジェネラーレウーノが確保。そのすぐ外のステルヴィオがクビ差の4着で大外のキタノコマンドールがハナ差で5着。その2頭の間のグレイルがハナ差で6着。
 優勝したエポカドーロは重賞初勝利での大レース制覇。昨年10月の新馬を2着の後,一息入って今年の1月に復帰。未勝利を2馬身半差で勝つと500万条件も3馬身半差で連勝。前哨戦のひとつであるスプリングステークスに出走してハナ差の2着。それまでの経験値を考慮すればこの2着は非常に価値が高いもので,ここも優勝候補の1頭と考えていました。レースがやや特殊な展開になりましたので,楽勝といっていいほどの内容ほど能力が抜けていない可能性はあると思いますが,先行力があるということは将来にわたってもこの馬の大きな武器になるだろうと思います。父は第71回を制したオルフェーヴルで父仔制覇。母は2005年にフェアリーステークス,2006年にフィリーズレビューを勝ったダイワパッション。11代母がバレークイーンの7代母。Epoca d'Oroはイタリア語で黄金の時代。
 騎乗した戸崎圭太騎手は2016年のジャパンダートダービー以来の大レース制覇で大レース15勝目。皐月賞は初勝利。管理している藤原英昭調教師は2016年のヴィクトリアマイル以来の大レース制覇で大レース14勝目。皐月賞は初勝利。

 第四部付録第二四項は,憤慨indignatioという感情affectusをとくにとりあげて,それが公平という外面性を有しているとし,しかしそれは憎しみodium,他者に対する憎しみと同様に,憎んでいる他者に害悪を与えようとさせる感情であるから,社会正義に反するのであるといっています。このことの意味も軽く考えてはいけないと僕は思っています。スピノザはここで,憤慨のような感情でさえ,憎しみの一種である以上は社会正義に反すると強く主張していると解するからです。
                                
 憤慨は第三部定理二二の様式で発生する感情です。たとえば,ある人間がどこかの路上で無差別に多数の人間を銃殺したとしましょう。このときこの事件の被害者と無関係の人であっても,この殺人者に対しては憤慨するのではないかと思います。まして被害者の関係者,家族とか友人であったならなおさらそうでしょう。ところがスピノザがいっているのは,たとえこのような場合でも,個人が抱く憤慨という感情は一律的に社会正義に反するということなのです。たぶんスピノザが憤慨は公平の外観を帯びているというとき,想定されているのはこのような憤慨であると僕は考えています。そして実際に僕たちは,この種の憤慨を抱くことこそが社会正義なのであって,不正義injustitiaは殺人者の側にあると判断するのではないでしょうか。スピノザはそのことを否定しているのです。実際にその後に続いてる文章は,もし他人の行為について自己の権利jusを擁護することが各人に許されるという場合だけでなく,他人の権利を擁護することが各人に許される場合についても記述されていて,その場合には僕たちは無法律で暮らすことになるといっているのですから,少なくともスピノザがここで僕が例示したようなことをも想定していることは疑い得ないでしょう。
 諸個人の審判というのは社会においては正義justitiaではありません。ましてそれが憎しみによって審判されるなら,それがたとえ憤慨のような憎しみであってさえ,社会正義には反するのです。この種の審判を正当化することと,排他主義者が自身の排他的思想を正当化することは,実は同じことなのだということを僕たちはよく知っておく必要があるといえるでしょう。
コメント
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