スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典兵庫チャンピオンシップ&打ち合わせ

2024-04-30 19:11:04 | 地方競馬
 昨日の第25回兵庫チャンピオンシップ
 モズミギカタアガリは発馬直後に大きく左によれてしまいました。逃げたのはエートラックスで2番手にエコロガイア。3番手にギガース。4番手にチカッパとリケアサブル。6番手にダイジョバナイとイーグルノワール。8番手にクラウドノイズ。2馬身差でクルマトラサン。ダイボウケンと追い上げてきたモズミギカタアガリが並んで最後尾を追走して発馬後の正面を通過。向正面に入って内から追い上げたチカッパがエコロガイアと並んで2番手。3番手にギガース。2馬身差でリケアサブル。6番手にイーグルノワール。7番手にダイジョバナイという隊列に。ハイペースでした。
 3コーナーまでにエコロガイアは後退。2番手がチカッパとギガースの併走になり,4馬身差の4番手に向正面から外を捲っていったモズミギカタアガリ。直線に入ると逃げたエートラックスが2番手以下との差を広げていき,楽に逃げ切って優勝。流れ込んだチカッパが3馬身差で2着。ギガースの外から追い込んだモズミギカタアガリが2馬身半差で3着。
 優勝したエートラックスは重賞初制覇。ここは前走でJRAのオープンを勝った2頭が有力とみていましたが,その2頭での決着、たぶん現状の力関係の通りの結果とみていいと思います。速力の面でエートラックスの方がチカッパを上回っていたということでしょう。距離を1400mに短縮してから結果が出始めた馬ですから,1700mでも勝っているとはいえ,距離は短い方がいい馬だと思います。母の父はシンボリクリスエス。母の6つ下の半弟に2021年の優駿スプリントアフター5スター賞を勝っている現役のワールドリング。A Tracksはブレイクダンスの技の名前。
 騎乗したブラジルのジョアン・モレイラ騎手と管理している宮本博調教師は兵庫チャンピオンシップ初勝利。

 チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがいつパリを離れ,いつローマに到着したのかということは,僕には確定的にいうことができません。また,パリからローマに直行したのか,それともどこかを経由したのかということも分からないです。ただ,僕が想定していることからは,いくつかの条件は設定することができます。
 スピノザが死んですぐ,編集者たちは遺稿集Opera Posthumaの編集作業に入りました。スピノザとチルンハウスの間で交わされた書簡には,哲学的に有益なことが多く含まれていましたから,編集者たちはそれを遺稿集に掲載したいと思ったのは間違いありません。ですから前にもいっておいた通り,それをどのような形で掲載するのかについて,チルンハウスと打ち合わせをしました。チルンハウスとシュラーGeorg Hermann Schullerの間では,書簡七十に書かれている通り,3ヶ月の音信不通でシュラーが心配するくらいに頻繁なやり取りが行われていたので,その任に当たったのは編集者のひとりであったシュラーであったと思われます。
                                        
 実際にこのような打ち合わせがあったということは,『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』では確定的なこととして記述されています。フロイデンタールJacob Freudenthalのその部分の記述は,チルンハウスの名誉を貶めるようなものになっていると僕は感じます。チルンハウスについてこのように記述するのならば,たとえばライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対してはどのようにいえばよいのかというような内容になっているからです。ただそのことはここではこれ以上は探求しません。確かに打ち合わせがあった,つまりスピノザが死んだからといって,シュラーとチルンハウスの間の書簡での交流は途絶えていなかったということが分かればそれで十分でしょう。
 ただしこれは書簡でのやり取りなのですから,チルンハウスがパリにいなければできなかったということにはなりません。ローマに移動しては書簡のやり取りはできないというものではないからです。だから,ライプニッツがパリを発つときにはチルンハウスがパリにいた可能性が濃厚ですが,スピノザが死んだときにパリにいたとは断定することができません。チルンハウスからの書簡によって,シュラーはチルンハウスの所在地を知ることができるからです。
コメント
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