イエレスJarig Jellesはスピノザが『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を出版するおりに費用を負担しました。おそらく金銭的に援助されることを好まなかったスピノザに対して,確実にそういう援助をしたと確定できる親友がもうひとりいます。それがシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesです。
フリースはアムステルダムAmsterdamの裕福な商人の家庭に産まれました。ただしスピノザと商人仲間だったと説明されているものはありません。フリースはコレギアント派collegiantenで,その関係からスピノザと知り合ったようです。
金銭的援助については『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』の中で,リュカスJean Maximilien LucasもコレルスJohannes Colerusも指摘しています。スピノザの質素な暮らしぶりを見かねたフリースは,年金を提供しようとしました。しかしこれはスピノザが断ったようです。また,フリースは自分が死んだ場合の遺産相続者にスピノザを定めようとしました。これもスピノザは辞退し,弟に相続させるように勧めたようです。フリースはスピノザよりひとつだけ若かったのですが,1667年にスピノザより先に死んでしまいました。相続人は弟になっていたようなのですが,その条件として,スピノザが生きている間は生活費のために年金を支払うという付帯条件を付けていたようです。スピノザはたぶんこのことを知らなかったと推測しますが,弟からの年金は受け取ることになりました。ただしフリースが指定したよりは減額したようです。コレルスはこの年金の提供がスピノザが死ぬまでずっと続いていたと報告しています。
ここから分かるように,スピノザはシモンだけでなく,フリースのほかの家族とも親しかったようです。スピノザはブレイエンベルフWillem van Blyenburgと文通を始めた頃,疫病を避けて一時的にフォールブルフVoorburgからスヒーダムSchiedamに移っていました。ここはフリースの姉妹や弟が住んでいたところです。またスピノザの死後,葬儀の費用についてはリューウェルツJan Rieuwertszが支払いを約束する保証をしたのですが,スヒーダムの友人がそれを負担するとしています。これはおそらくフリースの姉妹の夫であると『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では説明されています。
『聖書解釈者としての哲学Philosophia S. Scripturae Interpres』の著者がマイエルLodewijk Meyerであるということを,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenは知っていたという可能性は,僕にはそんなに高くないように思えます。というよりも,フェルトホイゼンがそれを読んだことがあったかどうかさえ,僕には不確定です。岩波文庫版の『スピノザ往復書簡集Epistolae』で,フェルトホイゼンが理性ratioは聖書の解釈者であると説く逆説的神学者が『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では排撃されていると要約している部分で,この逆説的神学者がマイエルであるという主旨の訳注が畠中によって付されています。ですがフェルトホイゼンが本当にマイエルを念頭に置いてそのように記述したのかは,フェルトホイゼンの書簡のテクストからは断定できません。畠中がいうように,この逆説的神学者の中にマイエルが含まれることは間違いありませんが,テクスト本文からはっきりと分かるのは,スピノザがそれを排撃しているということと,フェルトホイゼンも逆説的神学者の見解opinioには同意できないということだけです。そもそもフェルトホイゼンは,この書簡を書いている時点では,『神学・政治論』の著者がだれであるかまったく知らなかったか,少なくとも何らかの噂を耳にしたことがあっても,それがスピノザであるという確信は持てていなかったものと僕は推定します。なのでフェルトホイゼンが『聖書解釈としての哲学』を読んだことがあったのだと仮定しても,その著者がマイエルであるということまで知っていたという可能性は非常に薄いだろうと思うのです。
では『聖書解釈としての哲学』の著者がマイエルであったということがどこから確定できるのかといえば,それはハルマンの報告です。ハルマンがリューウェルツゾーンを訪れたとき,リューウェルツゾーンが『聖書解釈者としての哲学』もハルマンに見せました。リューウェルツゾーンは最初は著者名は伏せていたようなのですが,ハルマンが問い詰めたらマイエルであると教えてくれたと読解できるような記述になっています。
このとき明らかにリューウェルツゾーンは,スピノザとマイエルの考え方の違いを,フェルトホイゼンのようにはまったく理解できていなかったと思われます。
フリースはアムステルダムAmsterdamの裕福な商人の家庭に産まれました。ただしスピノザと商人仲間だったと説明されているものはありません。フリースはコレギアント派collegiantenで,その関係からスピノザと知り合ったようです。
金銭的援助については『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』の中で,リュカスJean Maximilien LucasもコレルスJohannes Colerusも指摘しています。スピノザの質素な暮らしぶりを見かねたフリースは,年金を提供しようとしました。しかしこれはスピノザが断ったようです。また,フリースは自分が死んだ場合の遺産相続者にスピノザを定めようとしました。これもスピノザは辞退し,弟に相続させるように勧めたようです。フリースはスピノザよりひとつだけ若かったのですが,1667年にスピノザより先に死んでしまいました。相続人は弟になっていたようなのですが,その条件として,スピノザが生きている間は生活費のために年金を支払うという付帯条件を付けていたようです。スピノザはたぶんこのことを知らなかったと推測しますが,弟からの年金は受け取ることになりました。ただしフリースが指定したよりは減額したようです。コレルスはこの年金の提供がスピノザが死ぬまでずっと続いていたと報告しています。
ここから分かるように,スピノザはシモンだけでなく,フリースのほかの家族とも親しかったようです。スピノザはブレイエンベルフWillem van Blyenburgと文通を始めた頃,疫病を避けて一時的にフォールブルフVoorburgからスヒーダムSchiedamに移っていました。ここはフリースの姉妹や弟が住んでいたところです。またスピノザの死後,葬儀の費用についてはリューウェルツJan Rieuwertszが支払いを約束する保証をしたのですが,スヒーダムの友人がそれを負担するとしています。これはおそらくフリースの姉妹の夫であると『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では説明されています。
『聖書解釈者としての哲学Philosophia S. Scripturae Interpres』の著者がマイエルLodewijk Meyerであるということを,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenは知っていたという可能性は,僕にはそんなに高くないように思えます。というよりも,フェルトホイゼンがそれを読んだことがあったかどうかさえ,僕には不確定です。岩波文庫版の『スピノザ往復書簡集Epistolae』で,フェルトホイゼンが理性ratioは聖書の解釈者であると説く逆説的神学者が『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では排撃されていると要約している部分で,この逆説的神学者がマイエルであるという主旨の訳注が畠中によって付されています。ですがフェルトホイゼンが本当にマイエルを念頭に置いてそのように記述したのかは,フェルトホイゼンの書簡のテクストからは断定できません。畠中がいうように,この逆説的神学者の中にマイエルが含まれることは間違いありませんが,テクスト本文からはっきりと分かるのは,スピノザがそれを排撃しているということと,フェルトホイゼンも逆説的神学者の見解opinioには同意できないということだけです。そもそもフェルトホイゼンは,この書簡を書いている時点では,『神学・政治論』の著者がだれであるかまったく知らなかったか,少なくとも何らかの噂を耳にしたことがあっても,それがスピノザであるという確信は持てていなかったものと僕は推定します。なのでフェルトホイゼンが『聖書解釈としての哲学』を読んだことがあったのだと仮定しても,その著者がマイエルであるということまで知っていたという可能性は非常に薄いだろうと思うのです。
では『聖書解釈としての哲学』の著者がマイエルであったということがどこから確定できるのかといえば,それはハルマンの報告です。ハルマンがリューウェルツゾーンを訪れたとき,リューウェルツゾーンが『聖書解釈者としての哲学』もハルマンに見せました。リューウェルツゾーンは最初は著者名は伏せていたようなのですが,ハルマンが問い詰めたらマイエルであると教えてくれたと読解できるような記述になっています。
このとき明らかにリューウェルツゾーンは,スピノザとマイエルの考え方の違いを,フェルトホイゼンのようにはまったく理解できていなかったと思われます。