スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

しらさぎ賞&意味の転換

2018-04-25 19:02:31 | 地方競馬
 高知から1頭が遠征してきた第56回しらさぎ賞。真島大輔騎手が疾病のためアップトゥユーは森泰斗騎手に変更。
 先行争いは激しくなりましたが,先手を奪いきったのはコーリンベリー。ここから概ね半馬身から1馬身の間隔でスターインパルス,ラーゴブルー,コスモフットライト,アップトゥユーまでの5頭で先行集団を形成。2馬身差でニシノラピートとディーズプリモが好位。4馬身ほど間があってフジノドラマ。さらに5馬身ほど開いてコスモパープルとファイトユアソング。6馬身ほど離れてビーインラプチャー。大きく離れてタッチスプリントという隊列。最初の600mは35秒1のハイペース。
 3コーナーを回るところでスターインパルスが後退し,2番手にラーゴブルー。コスモフットライトは3番手にくらいついていましたが押してようやくついていくという感じ。後方から捲り上げてきたファイトユアソングが大外から上昇し,直線の入口では逃げたコーリンベリーまで捲り切って先頭に。しかし内で脚を溜めていたラーゴブルーがそのまま内から抜けてきて2頭の優勝争いに。脚を長く使ったファイトユアソングが先に力尽き,優勝はラーゴブルー。ファイトユアソングが4分の3馬身差で2着。直線の入口では4番手まで上がっていたニシノラピートが,コーリンベリーは抜いて2馬身半差で3着。
 優勝したラーゴブルーは南関東重賞初挑戦での初勝利。JRAで昨年1月にデビュー。しかし未勝利戦を勝ち上がれず,南関東に転入。昨年の暮れが転入初戦でそこから4連勝。前走はこのレースのトライアルで2着に入ってここに出走していました。未勝利を勝ち上がれなかったとはいえJRAでの最後の2戦は3着,2着。おそらく馬がよくなっていた時期で,転入後は500万との交流戦も3馬身差で快勝しているくらいですから,成長していたのは明らか。このレースは斤量を課せられる実績馬よりも,格下でも勢いがある斤量の軽い馬が勝つという傾向が顕著でしたから,この馬が勝つ可能性が最も高いと考えていました。レースの傾向に見合った52キロでの優勝ですから過大に評価することは慎むべきだと思いますが,底を見せていないのは事実ですから,もっと斤量関係が不利になっても好走できる可能性も大いにあるでしょう。父はハーツクライ。母の父はキングカメハメハ。4つ上の半姉が2013年にフローラステークスとローズステークスに勝ったデニムアンドルビー。母の10歳上の半姉がトゥザヴィクトリー。Lago Bluはイタリア語で青い湖。
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手ユングフラウ賞以来の南関東重賞24勝目。第53回,54回に続き2年ぶりのしらさぎ賞3勝目。管理している川崎の内田勝義調教師は第51回以来5年ぶりのしらさぎ賞2勝目。南関東重賞は14勝目。

 観念ideaの原因causaを思惟の属性Cogitationis attributumの内部に求めることは,従来の考え方を大きく逸脱するものであったと僕は思っています。同時に,僕たちが観念について思い込んでいることとも違っているのではないかと思うのです。
 観念は必ず何かの観念です。すなわち観念には観念の対象ideatumが存在します。これをスピノザの哲学の用語で示せば,観念には必ず外来的特徴denominatio extrinsecaがあるということになります。いい換えれば外来的特徴を有さない観念は存在しないということになります。これはそれ自体で明白だと納得できるところだと思います。
 このとき,観念の原因を観念の対象に求めると,観念は観念されたものがなければあることも考えることもできないものだということになります。もし何かが精神mensや知性intellectusの外部に存在していて,それが認識されることによってそのものの観念が発生するのだと解するなら,それは観念をこのようなものとみなしているのと同じです。この場合には観念されるものが観念に対して先行していなければならないからです。
                                
 ところが,もし観念の原因を観念されたものでなく,思惟の属性の内部に求めるのであれば,これとは違ったことになります。なぜなら第一部公理三により,原因が与えられさえすれば結果effectusは必然的にnecessario生起するのですから,観念されたものがなくても,観念の原因があるならその観念はあることになるからです。つまり,観念には必ず観念されたものがあるということ,いい換えれば観念には外来的特徴が必ずあるということをスピノザは是認するのですが,その意味はかなり転換されているのです。観念には外来的特徴が必ずあるのですが,その外来的特徴がなくても観念はあることができるのです。すなわち観念は必ず観念されたものを付随させますが,観念されたものがないとしても,観念自体はあることができるのです。観念には外来的特徴があるということ,観念は必ず観念されたものを伴っているということは,そのようにして発生する観念が有している性質のひとつにすぎないのです。
 なお,このことは逆の場合にも成立します。現代ではどうか分かりませんが,スピノザの時代にはそちらも重要であったと思われます。
コメント
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