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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&グレフィウス

2015-08-27 19:44:48 | 将棋
 徳島市で指された第56期王位戦七番勝負第五局。
 広瀬章人八段の先手で角換り相腰掛銀。後手の羽生善治王位が6筋を突いて先手が☗6四角と打つ将棋。途中から流れが激しくなり,先手が攻めきるか後手が受けきるかの将棋になりそうでしたが,攻めきれないとみた先手が後手の龍を抑え込む代償に流れを緩やかにしたので,泥仕合になりました。
                         
 上部を押さえつつ龍取りに金を打った局面。質駒を打ったような感じでこの手自体は意外でした。後手玉は龍を取られてもすぐに寄るわけではないので,絶好機といえそうです。
 ☖6六桂と銀を取って☗同銀に☖6九銀と打ちました。
 先手は龍を取っても金が質駒になっている状況は変わらずはっきり負け。☗7九金と逃げました。
 ☖6八銀は部分的には重いですがこの場合には厳しい追撃。☗同金☖同とよりはましでしょうから☗6九金☖同銀不成は必然的進行。相変らず金が質駒なので☗9六香と逃げ道を作りましたが☖5二飛が決め手になりました。
                         
 さすがにここで馬を逃げることもできないでしょうから後手が角の入手に成功。第2図で角は後手にとって最も欲しい駒ですから,ここで勝負は決まったといえるのではないでしょうか。
                         
 羽生王位が4勝1敗で防衛。第34期に初めて就位。そこから42期まで九連覇。45期に復位すると46期,47期と三連覇。52期に最復位し,53期,54期,55期そして今期と五連覇で通算17期目の王位です。

 スピノザはフェルトホイゼンLambert van Velthuysenが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』をどう評価しているか知っていました。しかしグレフィウスJohann Georg GraeviusがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに送った手紙の内容を知っていたという確証はありません。いい換えればスピノザはグレフィウスが自身の敵対者であることは,もしかしたら知らなかったかもしれません。なので同じように敵対者と面会するといっても,フェルトホイゼンやブレイエンベルフWillem van Blyenburgと面会する場合と,グレフィウスと面会する場合とでは,スピノザにとっては,あるいはスピノザの心のうちにおいては,意味合いは異なる可能性もあったと考えておくことは必要です。
 スピノザとグレフィウスが会ったのも,スピノザのユトレヒトUtrechtへの滞在中の出来事でした。グレフィウスはスピノザを無神論を世界に散布する悪疫のような人物と判断していたわけですが,この会見もどうやら穏便に済んだようです。スピノザは帰国後に,グレフィウスにも短い手紙を送っていますが,少なくとも表立って言い争うようなことはなかったであろうことが,その内容から推測できるからです。
 1673年12月,すなわち訪問の時期が同年の7月であり,その間にスピノザとグレフィウスが面会したとして,およそ5ヶ月後にスピノザから送られたのが『スピノザ往復書簡集』書簡四十九です。ここではスピノザがだれかから借りたデカルトの死に関する書簡を,その借りた当人が返却を求めているので,すぐに返してほしいという内容だけが記されています。要するにスピノザはだれかから借りたその書簡というのを,グレフィウスにまた貸ししたのでしょう。それはユトレヒトで面会したときに貸し,後に返してもらう約束をして帰ったのかもしれませんし,あるいは帰国後に小包のような形で送ったものかもしれません。いずれにせよ,そうした書簡を貸し借りするような関係にスピノザとグレフィウスはなったということの証明です。そしてそのような仲になったのは,ユトレヒトでの面会の成果であったとしか考えられません。
 グレフィウスは言語学者とされていますが,スピノザが貸したものの内容から察すると,デカルト主義者であったのではないかと僕には思えます。
コメント
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