津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■瑤台院様の箱根関所越え

2016-11-15 08:22:23 | 歴史

 細川藩九代藩主の治年は天明七年(1787)九月十六日江戸にて死去した。年二十九歳。嫡男・年和が年若であった為、正室・瑶台院の実弟宇土藩主・立禮を養子として十代藩主とした。斎茲である。
そんな中瑤台院は寛政四年(1792)四月、国元へ湯治の名目で帰国している。

実は先にご紹介した「箱根関所物語」に、四月十四日「細川越中守養母瑤台院」が国元へ湯治の為帰国、箱根の関所を通過されたことが記されている。
三月下旬にはこの帰国については関所へも知らされていたらしく、二十七日関所から小田原藩に対し、その取扱いに対し判りかねることを尋ねる伺い書をだしている。
「入り鉄炮と出女」は大変うるさく、大名家とて同様である。処が瑤台院が先代の藩主夫人であり、あまり例がなかったとみえての伺いだったようだ。

1、役人は上の間の下座に下がること。
2、上の間における人見女の改めは大名夫人同様の扱いとすること。
3、通行にあたっては先番の女中衆が少し前に来るが、(そのまま通さず留め置き)瑤台院改めの付き添いをさせること。
4、瑤台院の駕籠は番所縁側までは陸尺(かごかき)、上の間へは細川家付き添いの者が行い、その者は縁側で控えること。
5、瑤台院の駕籠には御側用人二人、付き添い女中一人が上の間に上がってよいこと。
6、駕籠が上の間に上がったら役人は次の間へ下がり、人見女を差出して改め、終了したら細川家付き添いの者が駕籠を縁側まで運び、その後陸尺に渡すこと。改めの際駕籠の戸を引くのは付き添いの者であること。    (以上津々堂要約)

以上が伺いによって決められたことであり、このことは通行の日の早朝細川藩士が先行して関所に出向いた際に通告された。
瑤台院は駕籠に乗ったまま関所の上の間へ通され、女性専門の改め役「人見女」によって形式的な「改め」を受けている。

この一事がその後の藩主の母・妹などの箱根関所通過の手本となったらしい。

 

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