今般埼玉在住の柏木様より「郡宗保」の一族に係わるレポートをお送りいただいた。
お許しをいただき其の全文をご紹介する。
細川忠興の側室(松之丸)が郡宗保女であり、その女古保が松井興長の室となった。
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■郡宗保の養父郡兵太夫良興〔又は平太夫宗弘、兵太夫正信〕について
郡兵太夫は、初め三好家臣攝津内領主松山新助に屬していましたが、後に足利義昭に随ったのでしょうか、元龜二年八月二十八日攝津國白川河原合戰にて和田惟政の軍奉行として出陣し、山脇源大夫重信に討たれました。「茨木市史」によると、領民が哀悼して郡主從六十人の塚を築き、茶臼塚、馬塚と稱して毎年三月二十八日は郡、下井の有志による佛事が營まれているそうです。郡邦辰様におかれましては、今に墓參を欠かされない由、誠にゆかしい限りと存じます。
なお、郡兵大夫に實子が二人あったようで、長子郡彌源は父戰死の時、能き働がありました。次子郡彦兵衞は鳥取池田家に仕へ、其子郡又右衞門は池田吉泰代に浪人となり、伏見に居住して宗伯と號しましたが、家跡は絶えたようです。
■郡宗保の實父伊丹安藝守親保の子女について
○長子伊丹勘左衞門
伊丹親永の遺子伊丹親興を後見して足利義昭に從ふ。永祿十二年一月六日六條堀川本國寺合戰
にて討死す。其女は父討死後叔父郡宗保に養はれ、豐臣家臣萱野彌三右衞門源長政に嫁す。
○次子伊丹左近大夫 川家臣。
○長女、伊丹十一右衞門〔後に改名加藤九左衞門〕に嫁し、嫡子伊丹彌右衞門〔田家臣〕、次子
郡太兵衞〔有馬家臣〕を生む。
○三子郡甚十郎宗保 郡兵太夫養子。叙任從五位下主馬首。
息女が細川忠興の側室・松之丸殿 女・古保は細川家重臣松井興長室
○次女、初め伊丹左太郎重定に嫁し、後に加藤又左衞門重に再嫁し、嫡子加藤圖書吉成〔田家
臣〕、次子田美作守一成〔田家臣〕を生む。慶長二十年五月二十一日死す。
黒田蔵人(伊丹正重・角助)
豊前時枝城主・時枝平大夫二男。はじめ黒田孝高に仕。致仕後福島家に
仕えるも福島家信州転封により牢人、大坂にて細川忠興に召出さる。
室・加藤重徳女 寛永十八年六月八日没
蔵人の細川家仕官に関する忠興の執心振りを示す文書が「細川家文書」に残されている。
「望まれて・・黒田蔵人--2」として、2008-09-22のブログでご紹介した。
○三女、餘田源兵衞重政に嫁し、田家臣郡正太夫慶成妻、田家臣村尾八郎右衞門入道意安妻を
生む。
○四子伊丹次郎左衞門〔一に次郎右衞門〕 池田家に仕へ、子孫備前池田家中にあり。
■郡宗保の實母郡左京亮光成〔攝津國嶋下郡太田の内五荷庄山中蒲山城主〕の子女について
○長女、伊丹安藝守親保に嫁す。
○次女、餘田肥後守に嫁す。
餘田肥後守に四子三女あり。長子餘田新右衞門。次子餘田治部少輔。長女、宿久若狹に嫁す。
次女、吉田左助に嫁す。三子餘田源兵衞重政入道眞齋。四子郡安右衞門。三女、小河三八に嫁す。
餘田重政は初め荒木村重に從ひ、後に豐臣秀吉に仕ふ。細川三齋へ千石にて罷出づべき處不調。
元和年中有馬豐氏方にて先知千石を給せらる。老後筑前にて女婿郡正太夫慶成の扶助を受く。
無子跡絶。 余田半兵衛(300石)なる人物が細川家に仕え、明治に至っている。関係不明。
郡安右衞門は母方の名字を名乘り、後に紀州川家にて大小姓組三番に屬し、五百石知行す。
其子郡庄内、和歌山にて死す。跡絶。
○長子郡兵太夫
○三女、小河兵部に嫁す。
以上
お許しをいただき其の全文をご紹介する。
細川忠興の側室(松之丸)が郡宗保女であり、その女古保が松井興長の室となった。
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■郡宗保の養父郡兵太夫良興〔又は平太夫宗弘、兵太夫正信〕について
郡兵太夫は、初め三好家臣攝津内領主松山新助に屬していましたが、後に足利義昭に随ったのでしょうか、元龜二年八月二十八日攝津國白川河原合戰にて和田惟政の軍奉行として出陣し、山脇源大夫重信に討たれました。「茨木市史」によると、領民が哀悼して郡主從六十人の塚を築き、茶臼塚、馬塚と稱して毎年三月二十八日は郡、下井の有志による佛事が營まれているそうです。郡邦辰様におかれましては、今に墓參を欠かされない由、誠にゆかしい限りと存じます。
なお、郡兵大夫に實子が二人あったようで、長子郡彌源は父戰死の時、能き働がありました。次子郡彦兵衞は鳥取池田家に仕へ、其子郡又右衞門は池田吉泰代に浪人となり、伏見に居住して宗伯と號しましたが、家跡は絶えたようです。
■郡宗保の實父伊丹安藝守親保の子女について
○長子伊丹勘左衞門
伊丹親永の遺子伊丹親興を後見して足利義昭に從ふ。永祿十二年一月六日六條堀川本國寺合戰
にて討死す。其女は父討死後叔父郡宗保に養はれ、豐臣家臣萱野彌三右衞門源長政に嫁す。
○次子伊丹左近大夫 川家臣。
○長女、伊丹十一右衞門〔後に改名加藤九左衞門〕に嫁し、嫡子伊丹彌右衞門〔田家臣〕、次子
郡太兵衞〔有馬家臣〕を生む。
○三子郡甚十郎宗保 郡兵太夫養子。叙任從五位下主馬首。
息女が細川忠興の側室・松之丸殿 女・古保は細川家重臣松井興長室
○次女、初め伊丹左太郎重定に嫁し、後に加藤又左衞門重に再嫁し、嫡子加藤圖書吉成〔田家
臣〕、次子田美作守一成〔田家臣〕を生む。慶長二十年五月二十一日死す。
黒田蔵人(伊丹正重・角助)
豊前時枝城主・時枝平大夫二男。はじめ黒田孝高に仕。致仕後福島家に
仕えるも福島家信州転封により牢人、大坂にて細川忠興に召出さる。
室・加藤重徳女 寛永十八年六月八日没
蔵人の細川家仕官に関する忠興の執心振りを示す文書が「細川家文書」に残されている。
「望まれて・・黒田蔵人--2」として、2008-09-22のブログでご紹介した。
○三女、餘田源兵衞重政に嫁し、田家臣郡正太夫慶成妻、田家臣村尾八郎右衞門入道意安妻を
生む。
○四子伊丹次郎左衞門〔一に次郎右衞門〕 池田家に仕へ、子孫備前池田家中にあり。
■郡宗保の實母郡左京亮光成〔攝津國嶋下郡太田の内五荷庄山中蒲山城主〕の子女について
○長女、伊丹安藝守親保に嫁す。
○次女、餘田肥後守に嫁す。
餘田肥後守に四子三女あり。長子餘田新右衞門。次子餘田治部少輔。長女、宿久若狹に嫁す。
次女、吉田左助に嫁す。三子餘田源兵衞重政入道眞齋。四子郡安右衞門。三女、小河三八に嫁す。
餘田重政は初め荒木村重に從ひ、後に豐臣秀吉に仕ふ。細川三齋へ千石にて罷出づべき處不調。
元和年中有馬豐氏方にて先知千石を給せらる。老後筑前にて女婿郡正太夫慶成の扶助を受く。
無子跡絶。 余田半兵衛(300石)なる人物が細川家に仕え、明治に至っている。関係不明。
郡安右衞門は母方の名字を名乘り、後に紀州川家にて大小姓組三番に屬し、五百石知行す。
其子郡庄内、和歌山にて死す。跡絶。
○長子郡兵太夫
○三女、小河兵部に嫁す。
以上
当方では左京亮光成は、正信。兵太夫良興は、正信として名前が伝わっております。
正信の後嗣は、彌源との同一性は不明ですが、郡源左衛門として、江戸時代に代々茨木の郡村の庄官を勤めた家があり、現在は東京へ引越されており、系図を見せていただきにあがったことがございます。
また、東大史料編纂所の郡宗保伝記以外に詳しい記録を存じませんが、もし可能でしたら、出典を教えていただけないでしょうか。