津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

間違い発見「形部卿とは・・」

2012-12-18 23:52:21 | 史料

 大日本近世史料・細川家史料(七)に間違いを発見・・・
寛永十八年二月五日三齋より忠利宛書状(1690)の冒頭に次のようにある。

      江戸形部卿ゟの文請取候由、被申遣可給候、以上
             (本文略)

この文章において形部卿を( )書にて細川興孝としている。
残念ながら興孝はこの時期は熊本に在る。この形部卿とは忠利室・保壽院附の老女である。 

細川家文書・御印之物」に寛永十九年三月五日付奉行宛て文書として、次のようなものが有る。
「刑部卿まご成瀬弥次右衛門尉・成瀬元馬此両人ニ銀子弐拾枚遣候間堀平左衛門尉ニ可相渡也」というもので、「fosacawarocu」という光尚のローマ字印が押されたものである。ここに登場する成瀬氏なる人については、よく分からないし又この文書の内容についても良くわからない。
細川家史料(別巻)--人物索引に、「田中善左衛門室」として次のようにあった。

【山名豊国の姪にて、宮部継潤の養女となり、田中吉政の一族で継潤の家老田中善左衛門(八千石)に嫁ぐ。善左衛門は関ヶ原役で小早川秀秋の手に属し討死。のち豊前にて忠利に召出され、忠利室保寿院に仕う。光尚誕生により直に附属され、日夜御側に仕う。光尚の江戸へ発駕する時も供し、登城拝謁の時も附添う。】 田中善右衛門についても良くわからないでいる。

たまにはこういうこともある。

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時雨の壺、到来

2012-12-18 13:56:54 | 史料

 

                                         

                             唐物茶壺 銘 時雨 (所蔵・ミホミュージアム)

 

 

大日本近世史料-細川家史料 寛永十七年九月十六日書状(1658)
                   
                       以上        
                   昨日は時雨之壺被持越、如喜例、口を切茶を給候、去年ゟ味勝候と覺申候
                   殊初鸖其外色々令料理、祝入候、座中之躰、三淵内匠可為演説候、幾久と
                   祝入、満足之趣一書令申候、恐々謹言
                                                      三 齋
                           九月十六日                     宗立 (ローマ字印)

                              越 中 殿
                                  進之候 

 

実はこの前十三日、十四日三齋は忠利(在熊本)に書状を発している。

                十三日の書状(1656 抜粋)
                   かこいも大形出来、今少かべのひぬ計にて候、又京から取寄る壺も、半分
                   ほとはや内裏迄著たる由、先へ注進候、如此候間、一両日之内ニ著可仕候、
                   然ハ吉日ニ候間、來ル廿七日ニ、其方差合無之ハ座敷ひらき、口切申度候、
                   若差合事候ハゝ、廿七日ゟさきハ十月迄、其方次第日さし此者ニ可承事

                十四日書状(1657 抜粋)に於いては
                   來廿七日、座敷ひらき、壺之口切可申と申候處、廿六日ニ小川迄被來、廿
                   七日我々所へ直ニ可被参由、一段満足申候、幾久と祝入候

この時期三齋は八代の城内に数寄屋を作事しこれが完成したので、そのお披露目のためにわざわざ京都からこの「時雨の壺」を取り寄せたことが判る。
廿六日には小川(肥後八代郡)に到着の予定だと十四日書状で記している。
そして九月廿七日書状(1660)に於いては、「今日ハ來儀候て、口切目出度存候」 と書いている。
しからば、十六日付書状の意味するものは何だろうかと考えながら、思い至らず頭がこんがらがっている。
 


                    

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