大日本近世史料・細川家史料(七)に間違いを発見・・・
寛永十八年二月五日三齋より忠利宛書状(1690)の冒頭に次のようにある。
江戸形部卿ゟの文請取候由、被申遣可給候、以上
(本文略)
この文章において形部卿を( )書にて細川興孝としている。
残念ながら興孝はこの時期は熊本に在る。この形部卿とは忠利室・保壽院附の老女である。
細川家文書・御印之物」に寛永十九年三月五日付奉行宛て文書として、次のようなものが有る。
「刑部卿まご成瀬弥次右衛門尉・成瀬元馬此両人ニ銀子弐拾枚遣候間堀平左衛門尉ニ可相渡也」というもので、「fosacawarocu」という光尚のローマ字印が押されたものである。ここに登場する成瀬氏なる人については、よく分からないし又この文書の内容についても良くわからない。
細川家史料(別巻)--人物索引に、「田中善左衛門室」として次のようにあった。
【山名豊国の姪にて、宮部継潤の養女となり、田中吉政の一族で継潤の家老田中善左衛門(八千石)に嫁ぐ。善左衛門は関ヶ原役で小早川秀秋の手に属し討死。のち豊前にて忠利に召出され、忠利室保寿院に仕う。光尚誕生により直に附属され、日夜御側に仕う。光尚の江戸へ発駕する時も供し、登城拝謁の時も附添う。】 田中善右衛門についても良くわからないでいる。
たまにはこういうこともある。