津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

お安く読む・文春文庫「長宗我部」

2012-12-26 20:32:20 | 書籍・読書
   長宗我部 (文春文庫)
 
     文藝春秋

長宗我部元親の末弟・親房の直系の子孫、長宗我部友親氏の著作である。長宗我部オフィシャルサイト もご覧あれ。

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さて細川家家臣にも長曽我部氏の流れがある。
■町源右衛門、長曽我部元親の二男(旧名吉良左京進)である。
 元和二年江戸にて忠興に召出され、三百石。長曽我部の「ちょう」を、町と改めたて名字とした。のち加増百石。江戸留守居役をつとめたが、
 三齋の勘気を蒙り暇を出された。その原因は光尚の正室(彌々)の急死について、病状の詳しい報告がなされなかった事によるとされる。
 三齋に心配をかけまいとの光尚の配慮であったともいう。光尚の死により再度の召出しはなく、堀田正盛に仕えた。(五百石)


             寛永十四年正月十七日付け、光尚宛て忠利書状(抜粋)
        【中屋敷之町源右衛門・神戸喜右衛門并宮本ニ(次)郎大夫此三人之儀、
         従 三齋様御ふち被放候由、不届様子被仰出候通、書中得其意候事】

■源右衛門の嫡子、町三右衛門尉は忠利に召出され、四百石。江戸留守居。江戸にて病死。明治に至る最後の当主は源弥(16人扶持)

■源右衛門の二男・町市之允。忠利代、寛永二年豊前国にて召出さる。知行二百石。十二年百石加増、都合三百石にて使番に任ぜらる。
 兄三右衛門の死により、江戸留守居を勤める。その後奉行役などを勤め、極老により役儀御断を願い免され、御番方に召加えらる。
 寛文六年十月病死。明治に至る最後の当主は市郎(300石)


また、長宗我部元親の伝記「長元記」は、長宗我部氏旧臣・立石正賀により書き残され上妻文庫・他に所収されている。

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寛永八年、連日の日食・・?

2012-12-26 18:01:41 | 史料

 寛永八年五月廿六日の忠利宛ての三齋書状(876)に、「本当かいな」と首をかしげる記事がある。

                     其元ニ奇特成事餘多御入候内、四月六日之月有明、又十六日之月夜中ニ出、
                     十四五日之比ゟ廿五日迄毎日日食之由、又廿五日之日出時分より蝕のことく
                     日ニ光なく候てあかく候由、爰元一切左様之儀無之候、去十六日候哉、日之色
                     いつもゟあかく候つる、加様ニ大空之儀所ニゟ替事前代未聞ニ候事

こりゃあいろいろ調べてみる必要がありそうだと、ぐぐってみるが反応なし・・・・・どなたかご存じあれば、お教えいただきたい。 

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一色義有御討果のこと(六)

2012-12-26 08:49:33 | 歴史

                忠興君も無程被押寄御下知被成候、城中ニハ天下に名を得たる鉄炮の上手稲富伊賀祐直 慶長五年ニ詳に出す を初、弟子共数多有
                ける故、味方にも手負死人多く有之候、されともひるます鉄炮打かけ候、中ニも沢村才八は一番に走着、初より桛(カセギ)けるか、
                よせ口を不退、よく鉄炮を打て矢間をからミ候間、手負も薄く成候、一色の家老鳥井彦八郎 一ニ鳥井作五右衛門 士卒を下知して突て
                出る、御馬廻追手口ニ仕掛ける内、美濃七人衆しらミけるか、可児清左衛門計能働候 残る六人ハ其場より立退く、余所にてハよかりし者也と云
                松井・有吉等組を下知し戦はせ候ニ、敵壱人立行に突てかゝるを突伏て首を取、其外何れも相働、搦手ニ而ハ志水新之允下知
                を加へ、自身敵を鑓付て首を取、城兵若干討れ引入れて堅く守り候得共、松井・米田・有吉等下知を加て強く攻付候間、城中終
                に防兼、我々共不残御討果し候ハゝ、一色殿御内室御生害いたさせ各切腹可仕候、我々御助ヶ義有の男子 二歳 五郎を後に御
                取立候ハゝ、御内室を無事ニ渡し城を開き可申旨懇に申候間、助右衛門ハ殊に真下か言をのへて和議を取扱ひ、松井・有吉等
                ニ談して忠興君に達し、則城兵御助命可被成旨言送り、城を受取、御内室并其御子五郎を携へ宮津へ御帰城被成候
                                 一色の浪士稲冨を初め、名有者共追々被召抱候も数人有之候
                   義有の死骸ハ菩提所大円山盛林寺に葬り、賞雲源忠と謚す 家系別ニ出 義有の後室無是非思召、忠興君御対面之時不図
                   脇差にて御突候を御はつし被成候ヘハ、御鼻に中り後迄疵少有之候ひしと也、此後室程経て吉田神職卜部兼治に再婚有、
                   御子数多出 系別ニ出す、一書義有の女子も此御腹と有は誤なり 義有の御子五郎ハ剃髪して後愛宕福寿院の住侶と成、幸能法院と云、
                   幸賀の後住也、廿五歳にて寂す
                     考ニ湯川随節か由緒書ニ、先祖浅井茂十郎三齋様御甥福寿院幸賢法印愛宕江御入院被成候節御附被成、後御差図を
                     以湯川竹雲と申ものゝ養子ニ相成、湯川宗碩と改候と有、幸賢幸能同人の様ニ心得たる族も有之候、幸能法印ハ本書之
                     通一色の御子也、幸賢法印ハ右御伊や様後ニ吉田兼治ニ御再嫁ニ而、御出生之御子御出家ニ而福寿院五代目の住職
                     也、兼治の三男也
                     一書、天正十一年九月四日一色義有を誅給ふ、此義有ハ敵対なれ共降参によりて本領を宛行れ、藤孝君の御息女に嫁
                     せしめて睦かりしか、忽に心をひりかえし柴田に組して藤孝君御父子を亡し、丹後を一円ニ掌握せんと思ひ立、忠興君の
                     越前に赴き給ふを窺ひ、戦艦を犬の堂の沖へ漕出す、かゝる所に忠興君帰陳し給ふと聞へけれハ、是非なく犬の堂より
                     兵を引て帰り謀叛の色を顕しける、依之忠興君義有を討んとし給ふ、藤孝君姻戚のよしミを以彼是あつかひ給ひ、両家暫
                     無事也といへ共、義有猶引籠て不来、忠興君憤不止、秀吉に告て一色を討んと窺はる、速に討せらるへしと有しかハ、内
                     々御用意有、求政謀略を以義有宮津ニ来らると云々、また牧武次筆記に、志津嶽合戦に中川瀬兵衛討死を秀吉公討負
                     給ふやうに風聞するを聞て、義有犬の堂と云沖迄漕出しけるが、弓木に残し置たる家人共小舟にて追かけとゝめける故
                     帰船せらる、然れ共色々顕れ候間、忠興君御帰陳の御歓ニも出不被申候ニ付、幽齋君御扱にて宮津へ被参候ニ成と
                     云々、考に両説共ニ誤なるへし、一色殿御討候ハ天正十年九月八日なり、志津嶽合戦は同十一年四月なり、一書、弓木
                     城攻の時米田助右衛門馳着、野田の橋詰にひかへ、使を以御内室をたに渡さは面々には子細あるへからすと云遣す、
                     城中詮議区なりけるか、御内室を人質に取、後の山より忍ひ出、但馬をさして落行、助右衛門是を聞付て追懸、但馬国藤
                     森にて内室を取返す、城をハ興元受取、番人を置て帰陳せらる云々

 

                                                 (了) 

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