津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

澤村家の借金

2012-12-14 13:45:07 | 史料

 年未詳の書状(1813)において、澤村大學の借金について書かれている。

一、澤村大學、中路周防女共ニ、慶長廿年之年、八木五十石四和利ニかり、如此之借状仕遣候、
   正源院添状も御入候間、冩進之候、か様ニ候へ共、何かと申一切手付も無之ニ付、中津ニ居
   候時、此借状我々所へ上候を、我々とハ主手前不成と申、正源院状ニも其通相見へ候間、當
   分越中へ申候とも、はきとハ相済間敷候、此もの事ハ、申出時分も可在之候條、其内ハ我々
   此借状預り置候間、何時にても能時分出シ、取て可遣間相待候へと申、當年迄待せ申候、然
   處、大學加増をも取申由候間、只今申進之候、當年中ニ急度取立可給候、我々すくニ請取可
   申候、慶長廿年ゟ當年まて、利ニ利を加候へは、貮萬九千八百八十石餘ニ成かと存候
一、慶長廿年之年より三年分之算用仕候而見候ヘハ、百三十七石貮斗ニ成候かと存候、此所分
   別候て取立、我々かたへ可給候、其上にて本状返シ可申候
一、     (中略)                        女ふぜいの物をかり候て、同シ家中ニ有 
   なから高知行取者共成次第ニ申のへ候事ハ、事之外之無理かと存、殊、大學過分之加増取
   候間、當年中ニ急度御取立候而可給候、若何かと候ハゝ、なけき申所不便ニ候條、先我々米
   を遣、大學手前ゟすくニ我々取候様ニ成共可仕候、其段ハ此返事次第たるへく候、恐々謹言

       七月廿七日                           三齋(花押)
            越中殿
               進之候


(中略)部分においては先に書いたT家のことが例に挙げられている。そのことから察すると寛永八・九年のことと思われる。
慶長廿年(元和元年-1615)からすると 17年ほど経過している。実際は50石が29,880石余になっているというが、三年分の元利をとって事を済ませようというのであろうか。そしてまずは自分の米で返し、大學は三齋の方へ返させようという粋な計らいである。
これでは大學殿も飲まざるを得ないだろう。それにしても澤村大學ともあろう人がいただけない話ではある。

 

 

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大塩平八郎、四十七士を称える

2012-12-14 10:28:01 | memo

                                   四十七士
                                                がしんしょうたん いくしんさん 
                                 臥薪嘗胆幾辛酸    臥薪嘗胆 幾辛酸
                                                         いちやのけんこう ゆきにえいじてさむし 
                                 一夜剣光映雪寒    一夜の剣光 雪に映じて寒し
                                                しじゅうしちひ なおしゅをまもり 
                                 四十七碑猶護主    四十七碑 猶主を護り
                                                 りつぜん れいさつすかんしんのかん 
                                 凛然冷殺奸臣肝    凛然 冷殺す奸臣の肝

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