年未詳の書状(1813)において、澤村大學の借金について書かれている。
一、澤村大學、中路周防女共ニ、慶長廿年之年、八木五十石四和利ニかり、如此之借状仕遣候、
正源院添状も御入候間、冩進之候、か様ニ候へ共、何かと申一切手付も無之ニ付、中津ニ居
候時、此借状我々所へ上候を、我々とハ主手前不成と申、正源院状ニも其通相見へ候間、當
分越中へ申候とも、はきとハ相済間敷候、此もの事ハ、申出時分も可在之候條、其内ハ我々
此借状預り置候間、何時にても能時分出シ、取て可遣間相待候へと申、當年迄待せ申候、然
處、大學加増をも取申由候間、只今申進之候、當年中ニ急度取立可給候、我々すくニ請取可
申候、慶長廿年ゟ當年まて、利ニ利を加候へは、貮萬九千八百八十石餘ニ成かと存候
一、慶長廿年之年より三年分之算用仕候而見候ヘハ、百三十七石貮斗ニ成候かと存候、此所分
別候て取立、我々かたへ可給候、其上にて本状返シ可申候
一、 (中略) 女ふぜいの物をかり候て、同シ家中ニ有
なから高知行取者共成次第ニ申のへ候事ハ、事之外之無理かと存、殊、大學過分之加増取
候間、當年中ニ急度御取立候而可給候、若何かと候ハゝ、なけき申所不便ニ候條、先我々米
を遣、大學手前ゟすくニ我々取候様ニ成共可仕候、其段ハ此返事次第たるへく候、恐々謹言
七月廿七日 三齋(花押)
越中殿
進之候
(中略)部分においては先に書いたT家のことが例に挙げられている。そのことから察すると寛永八・九年のことと思われる。
慶長廿年(元和元年-1615)からすると 17年ほど経過している。実際は50石が29,880石余になっているというが、三年分の元利をとって事を済ませようというのであろうか。そしてまずは自分の米で返し、大學は三齋の方へ返させようという粋な計らいである。
これでは大學殿も飲まざるを得ないだろう。それにしても澤村大學ともあろう人がいただけない話ではある。