地震屋(地震の間)については、一段落させたつもりでいたが、またまた寛永七年の記事を発見したのでご披露したい。
三月十七日書状(799 抜粋)
紫蘭のことくなる白キらん所望由候間、此先ニ便宜ニほりて遣候へと河内所へ申遣候、定而
可参候、我々所ニ在之は地震屋ニ植置候間、女之細工ニハ能ほり候事中々成間敷と、下々
の持候をほらせ進之候へと申付候、それ悪敷候ハゝ、我々下次第ほらせ、地震屋之を可進
候事
四月十五日書状(805 抜粋)
紫蘭のことくなる白キ蘭之事被申越候、我々も其蘭と心得申候つる、地震屋ニ植候と申ニ付、
匂候らんと被存候哉、右之らんのそはニ植申候ニ付、其通申進之候つる、笑敷候、定而河内
所ゟ不匂白蘭可参と存候事
両通とも小倉に在る三齋から江戸の忠利にあてた書状である。忠利が江戸の屋敷に「白き蘭」を植えたいと考え、小倉へ所望の書状を出したものであろう。
それに対する返書である。この地震屋が小倉城内なのか中津城内なのかはっきりとしないが、河内(村上景則)から送らせるという事を考えると中津と考えるのが妥当であろうか?