細川家の歴史を考えるとき、痛恨事ともいえるのが幽齋女・伊也の婿一色義有を討果たした一件であるが、「騙し討ちだ」とするご指摘を受ける。当方としては何とも弁明のしようがない。数回にわたり綿考輯録の記事を余すところなくご紹介することにより、ご理解いただきたいと考える。
(天正十一年)八月御上洛、秀吉ニ御対面、直ニ江州安土ニ至り、幼君(三法師)に御礼被仰上、信雄ニ御対面、其後三七信孝に御対面の為岐阜ニ
赴かれ、既ニ城下迄御出被成候処 一ニ九月と有 秀吉公より密状来り候間、即刻御引返し御帰國被成候、一色義有はこの留守を窺ひ、宮津の城を取へ
きとて、犬の堂 宮津より十八丁 迄兵船を押出す処、はや御帰国の御様子を聞、弓の木へ押戻し候と也、其砌幽齋君より之御飛脚中途ニ而忠興君ニ参り
逢、近き在所ニ而御文箱を御開き被成候得とも御状無之間、御驚き、蓋を御覧被成候ヘハ、新き文箱故脂出候而、御状蓋ニ付有之候 夫より御一代にり文
箱にても蓋を御覧被成候 封目ニ幽齋君御印有り、是は義有野心ニ付て其御覚悟可有との趣なり
一書、忠興君の御帰を待受、御討果可被成との御たくミ也と被仰遣と云々、又一書、此事日置主殿より幽齋君へ御知せ申候と云々
忠興君矢立を御取出し、追付懸御目可申上と計御懐紙にざつと被遊、御使ニ被相渡弥道を早めて御帰城被成、一色家を攻討るへき催なりしに、義
有和議を乞ハれ、幽齋君御取扱被成、米田宗堅を以暫無事相調、忠興君弓の木の城ニ御出被成候、然れ共終ニハ義有を可被討果御内存也