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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

忠利二点、三齋一点

2012-06-12 22:52:18 | オークション

細川忠利 書状/古文書 書画 肥後熊本初代藩主 豊前小倉藩_画像1

細川忠利 書状/古文書 書画 肥後熊本初代藩主 豊前小倉藩

 

細川忠利 書状/古文書 書画 肥後熊本初代藩主 豊前小倉藩

細川忠利 書状/古文書 書画 肥後熊本初代藩主 豊前小倉藩

                 寺田源右衛門宛て書状である (裏面に宛名書きがある)
                 青地久右衛門も一時期寺田源右衛門を名乗って居るが、召出しが正保二年十月とされるから、父親源右衛門であることが判る。
                 ちなみに青地久右衛門は、京極丹後守にて千石、立花家にて三百石、光尚代旗本能勢小十郎肝煎にて召出、三百石  
                                                                                       津々堂
                                                    
                                             

細川三斎 書状/古文書 書画 小倉藩 関ヶ原の戦 豊前中津藩_画像1

細川三斎 書状/古文書 書画 小倉藩 関ヶ原の戦 豊前中津藩

                                      中路宗悦孫たら宛ての知行状 寛永廿一年は正保元年(十二月改元)
                     三齋がなくなる一年前のものである。
                     三齋のそば近くに仕えた人であろうか、女性の名前が判明する珍しいものである。  
                                                       
                           飛この國八志ろこ越り            肥後國八代郡
                           きた村尓て百石やく奈しニ         きた村にて百石役なしに
                           津かハす奈かく知行春へき        つかはすながく知行すべき
                           もの也                      もの也                             津々堂

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史料学入門

2012-06-12 21:39:08 | 書籍・読書
        史料学入門 (岩波テキストブックス)
 
               岩波書店

内容(「BOOK」データベースより)

歴史学の基礎作業ともいうべき史料の批判的な解読作業から、どのような豊かなイメージを引き出すことができるのか。本書は、初学者に向けて古今東西の様々な事例を紹介しつつ手ほどきする歴史学入門。史料解読の重要性と面白さを講ずることで、歴史学の何たるか、また歴史研究の醍醐味を伝える。大学教養課程における歴史論の基礎教材として構想されたテキスト。
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忠興が得た加藤家改易の情報(三)

2012-06-12 08:58:30 | 史料

 寛永九年五月廿八日書状(961)
    一 肥後家中之者共前かとより肥後身上果可申と見付候哉 妻子之儀親類共かたへ頼置候つる由
      不思議成儀共ニ候 扨ハ家中之者ハ今度之不慮を前かとより存候哉事
    一 肥後當地へ著ニ付其方飛脚三人急上候へと 織部(松野親英)・左近右衛門ニ申付上せ候 定而
      可為著事
    一 肥後品川ニ被居候を御尋之事由候而 はや両度江戸へ被参候 雅楽殿前々屋敷へ御よひ候共
      申候 又久世三十郎(廣當)所迄被参候共申候 たひ/\供ハ小性・下人かけて四五人之由候
      何事もきらりとしれ不申候 乍去両度被上候ハ見申候 二番目ニ被上候時ハ子息豊後被居候寺
      へ肥後守も右馬丞(加藤正方)も被遣扨圖書と申仁を遠上使以前ニ被遣候由候  定而是は肥後
      知音にて候間 渡部圖書(宗綱)にて可在之と存候 其圖書ニ気遣もなき御上使にて候由御いハ
      せなされ其後永井信濃殿(正勝)被遣候 其様子ハわきの者不承候 肥後御返事ハゑんより下へ
      おり せかれ無調法を仕出候 御檢使次第いか様ニも可申付由被申候 又豊後ハ私むさと仕たる
      儀ヲいたし候條 御諚次第ニ覺悟仕と ゑんの上より被申たる由候 此儀は傳説なから慥成儀候
      其慥成様子ハ書中ニ不被申候大略右之分たるへきかと存候 定而丹後殿より之状ニ大方之趣
      可在之と存候事
    一 此後何之沙汰も無之候 右之分ニ候へは親ニハ曲事無之躰ニ候へ共いかなれ親も被果にて可
      在之かと存候 又世上之沙汰ニハ肥後を事之外 上様にくみ被成由申候事
                            (以下略)
 
 寛永九年六月朔日書状(962)      加藤忠廣・光廣処分決定
    一 書状如此調置候處昨日廿九日肥後父子身上かたつき候 子ハ今度之一巻ニ付 金守出雲(重頼)
      ニ被成御預候 上下廿人にて飛騨へ被参之由候 肥後事は爰元にてうみ候むす子御年寄衆迄も
      不及案内まして不致言上も國へ引つれ罷解候事 事之外之曲事と思召候由候 其上豊後・同豊後
      母(忠廣室・蒲生氏)へ之あたりやうも沙汰之限と被思召由候へ共 命を被成御助 ■(宀に取・最)
      上庄内酒井宮内(忠勝)殿へ御預被成 堪忍分一萬石被遣由候 父子共ニ無御成敗候て不叶所
      被成御免候事御慈悲故と申事ニ候 人五十人にて被参と申候事
                            (以下略) 

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こんてむつすむん地

2012-06-11 20:41:12 | 歴史

 三浦綾子の「細川がラシャ夫人」を読むと、ガラシャが侍女佳代(清原マリア)にキリスト教に関する書物をたずね、佳代は「こんてむつすむんぢ」を提供するくだりがある。三浦は脊椎カリエスに罹って、キリスト教の洗礼を受けた人であり、この様なものの存在に詳しかったのであろう。生方たつゑ著の「細川ガラシャ」も、佳代なる人物が登場しこの書物も同様に登場している。側室おりょう(古保の生母・藤)が登場するなど、二つの作品が非常に類似しているところが多い。

さてこの「こんてむつすむんぢ」、実際は1610年に京都で出版されたというから、創作上の話である。

インターネットでは全部ではないが、其の一端をを見ることができるからありがたい。(古活字版から)
              http://www.screen.co.jp/ga_product/sento/pro/typography2/fukawa01/F01_001_023.pdf

内容については次のような論考も見受けられインターネット様々である。
              http://ci.nii.ac.jp/els/110004678963.pdf?id=ART0007411172&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1339413434&cp=

この時代にこの様な国訳本が出版されていたことは驚きであるが、同様の教えをもってガラシャがキリスト教に帰依したとすれば、まさに三浦綾子氏のこの引用は当を得たものといえる。そしてガラシャを書く上ではキリスト教の視点が重要であることを実感させられる。

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昭和も遠くなりにけり

2012-06-11 11:55:51 | 書籍・読書



                               降る雪や明治は遠くなりにけり   草田男

 これは誰でもご存知の草田男の句である。 
下手な句作もスランプということがある。最近はまったくの大スランプで、少し刺激を与えようと、中村草田男の句集を取り出して読んでみたりしている。
昭和6年草田男はどういう感慨を以ってこのような句を作ったのであろうか。明治34年生まれだからこの時期30歳である。明治・大正・昭和と世の中の換わり行くさまは思いがけぬスピードであったのだろう。降る雪のかなたの景色にしばし在りし日の姿を見出したのかもしれない。

昭和が63年、平成の御世も24年経過したが、時間の経過がよりいっそう早く感じられる齢となると、昭和という時代も遠く感じられるようになった。
大正天皇が崩御され改元の年号が、「光文」か「昭和」かでマスコミではスクープ合戦がすごかったという。「昭」という文字は一般的ではなく、電話で説明するのに苦労したという話がある。書経の「万邦協和 百姓昭明」から取られたものだが、「日へんにおめしの召」と伝えられたという。

                                   機影去り直視為し得る冬日あり

                             焼跡のこゝが眞中の春日差     草田男

草田男のつらい昭和の句であるが、戦争を知らない私(3年7ヶ月戦中派)たちは遠くなり行く昭和という時代を、どう伝えなければならないのだろうか。
わが心の中なる昭和をなんとか句にしてみたいとあがいている。 



 

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忠興が得た加藤家改易の情報(二)

2012-06-10 16:52:45 | 地図散歩

寛永九年五月廿三日書状(959)
    一 加藤肥後子息豊後事ニ付 道家左近右衛門所より爰元之様子申遣たる由候 其後横山清十郎を上せ 一ツ書にて申候
      左様之事未其元へ不聞以前之状と見へ申候 卯月廿七日之書状も参著候 はや肥後昨日廿二日巳之下刻品川迄著被
      仕候間 右両通之返事ニ不及事
    一 爰元之様子具ニ申度候へ共實正之事一切不聞推量ニ色々様々申候事ハ數多候へ共 それハ不及申遣候 菟角稲葉丹
      後殿(正勝) 次ニ榊左衛(榊原職直)之状之内可為必定候間可被得其意事
    一 如右肥後品川迄被著 あれニ逗留と相聞候 安藤帯刀(直次)雅楽殿(酒井忠世)へ昨日廿二被参 肥後品川迄著候へ共
      公儀はゝかり先品川ニ被罷在之由被申候ヘハ 雅楽殿さして取相もなく委細承候 其由可申上と計被申たる由候 是ハ其
      座ニ居申候ものゝ口にて候事
    一 加藤右馬允(正方)事 加々爪(忠澄)ニ被為預置之由候事
    一 當地肥後屋敷へも 御目付之衆切手にて無之候ヘハ出入不成候事
    一 身上相果候躰と見へ申候へ共 わけを存たるもの意つぁ位無之ニ付つもりも成不申 とかく爰元之様子見究候て佐分利
      兵太夫可上候間可被得其意事
    一 其方なとも當年中ニ當地へ参府之由候 定而九十月之比たるへく候哉 其迄ハ我等も當地ニ可在之と覺悟仕候事
    一 此外之儀種々様々の儀申候へ共無實正候 其子細は御年寄衆之内にても彼加豊後内之もの口上直ニ尋御聞候衆之外
      わけを存もの一人も無之候間世上より申候事ハ何も推量と可被心得事
                              (以下略)
          (目付衆の市中観察は厳しく島津邸の出火を家士に先んじて発見通報するほどだと記している。) 

寛永九年五月廿四日書状(960)
    一 加肥後當地著之様子飛脚三人上せ申進之候つる 今日廿四正宗(伊達)・北國之肥前殿(前田常利)・嶋大隅殿(島津
      家久)・上杉弾正殿(定勝)・佐竹殿(義宣)被為召 加肥後無届と御直ニ被仰聞 此中ニ取沙汰仕候書物二ツ右之衆へ
      御見せ被成 御代始之御法度ニ候間 急度可被仰付と御諚之由候 其時伊掃部殿(井伊直孝)加様之義は急度被仰付
      候ハて不叶儀と被申由候 如此ニ候間今朝之内可為切腹と存候事
                              (中略)
    一 未品川ニ被居法華堂在之へはいられ候由候 又當地屋敷へ被参候とも申候 此二色未知候 大略品川之寺ニ被居候と
      申か可為必定と存候事
    一 右之儀五人へ被仰聞候時 子息豊後事ハ何共御意なく候つる由候 定而むす子事迄御意ニ不及と思召候而之儀たるへ
      きと右五人之衆被申たる由候事
    一 今度之書物之事 豊後ハ不被仕との沙汰も御入候 左候とても親切腹之上ハ 生てハ不被居儀たるへきと何も申之由候事
    一 紀伊國大納言殿(徳川頼宣・室清正女瑶林院)より安藤帯刀(直次)御付置 御肝煎之由候 此様子しかと不承届候 萬々
      兵太夫上候時可申候 

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江戸時代の天皇

2012-06-10 09:51:38 | 書籍・読書

 

        江戸時代の天皇 (天皇の歴史)
 

               講談社

 

 

 

戦国時代末期に政治的・経済的に力を失っていた天皇(朝廷)は、織豊政権の援助を受けながらその命脈を保ってきた。
徳川政権時においては幕府の介入が著しく、政治的には無力と成っていく。しかしながら禁裏における伝統文化の再構築に勤め、其の権威を高めていく。
宝暦時代竹内式部らによる尊王論の萌芽をみ、その伏流が明治維新への活力としてつながって行く。
江戸時代を理解するうえで天皇ー朝廷ー公家の世界を勉強しなければと思い読み始めたが、これがなかなか面白くはまり込んでしまった。
ご一読をお勧めする。
 

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忠興が得た加藤家改易の情報

2012-06-09 15:47:09 | 史料

 三齋が得た加藤忠廣父子改易に至る情報を「大日本近世史料・細川家史料」から抜粋する。

・寛永八年五月十一日書状(875)抜粋
    一 宮内殿(池田忠雄)兄右京(弟・政綱)同弟石見(輝澄) 加藤肥後(忠廣)何も気違申由いな事かはやり申候
      狂気の始藤泉(藤堂高虎)にて候つる 藤堂左兵衛(高重)も此内にて候事

寛永九年正月廿四日 将軍秀忠没す 

・寛永九年卯(四)月廿七日書状(955)抜粋
    一 加藤肥後むすこ豊前守(光廣)事 此まへ左近右衛門(道家立成)かたより申遣由候 其後何共しれ不申候
      替儀候は左近右衛門ニ申付慥成もの下可申候 肥後守所へも切々注進之由候 可被上哉 但被上間敷候哉
      此方にて積りにくゝ候 如何様其邊被立聞可然候
   
   (四月十四日、幕府土井利勝等謀反ノ謀書ヲ作リシ者ヲ捜索シ、加藤光廣ノ所為ト為ス) 

・寛永九年四月廿八日書状(957)抜粋
    一 先度加藤肥後息松平豊後(加藤忠廣)事 大方道家左近右衛門所より申上せたる由候 其後替儀無之候へ共
      爰元之儀ニ候ヘハ 座敷毎此儀迄之取沙汰ニ候 乍去實正何共不聞届ニ付態人をも不上候事
    一 先書ニも申候 肥後之あたりへ人を被遣 様子被立聞 替儀候は可被申登候事

・寛永九年五月十五日書状(958)抜粋  切紙五枚綴り 抜粋
    一 此比佐分利兵太夫可戻由 左近右衛門申候間 其分と存候へは 此比加藤肥後(忠廣)當地へ被著之由候條
      其様子見候てからのほすへく候 (後略) 
    一 今度加藤豊後仕り被出候儀世上ニ聞傳色々ニ取そへて申ニ付口そろい不申候 此比慥成口を承届候 大略
      可為此分と存候間申候 慥成様子は此者口上ニ申候事
    一 今度豊後書物ニハ 日光へ御社参候而 あれにて大炊(土井利勝)被成御誅伐慥ニ候 然間こが(古河)と今
      市との間之在所にて候へ共 我々其名を忘候 其在所所よく候間是非共先を被仕候へ 日比申合候ことく御跡
      をくろめ可申と書候て 此儀偽ならさるとの起請を書名をは不書 名乗ハ信康と書 血判を仕 井上新左衛門と
      當所ニ仕たる由候 北國肥前殿(前田利常)之儀世上ニハ申候へ共彼書物ニハ無之由候 此儀を去所にて雅
      楽頭殿(酒井忠世)被語候 それを又去人語申たる由候而 其二番目之口より我等直ニ承候事
    一 此書物初ヶ條より合點之不参儀候 上様(家光)大炊(土井利勝)一人を御果シ被成候ニ 何之御手間入可申
      候哉第一こくうなる儀と存候 上様も爰まてはや御合點之参儀と存候 又は権現様十七年忌ニ御社参 相國
      様(秀忠)百ヶ日之内ニ大炊なと可被成御誅伐わけにて無之候 還御之後いつ被仰付候共可成事を加様ニ
      書申候事も猶以こくうなる儀と存候事
    一 右之分ニ候へ共誰も大炊殿之手前へも懸り可申と申候 乍去 上様ハむさと仕たる儀と可被思召かと存候
      とかく今度之申様たハ事と被思召候故かとも被存候事
    一 其後加藤肥後所より端午の御祝儀上り候へ共納り不申候 肥後事ハいつれも西國衆なみニ銀子過分ニ拝
      領被仕 仕合にて歸國之跡ニ豊後不慮をしいたし候條 肥後ニ此由被仰聞其返事之申上様ニより曲事ニも
      可罷成事ニ候を はや進物なと上り不申事不審なる儀と存候 加様ニ存之時は日比之不届共豊後一儀之次
      而ニ 御耳ニも立候哉と とり/\申事ニ候 又 相國様可被成 御他界砌國より鐡炮を二重箱ニ入取よせ
      隈本にても陣用意 其上しかたちかひ候事共 又當地之屋敷之内ニも 何時もかこひ候様ニ材木以下よせ置
      四方之塀下ニ于今積置て在之由候 加様之事 御耳ニ入而之儀たるへきと申衆も在之事
                                             (一部略)
    一 加藤豊後小性初とらへ候もの口そろい不申 氣ちかいの様ニ申なし候へ共一向左様ニ無之由候 于今彼者
      申候ハ しうより此文箱そこ/\へ持て参加様ニ仕れと被申付候を 何とていやとハ可申候哉 又書中之事ハ
      可存わけにても無之候 此外可申事一切無之候 初中後此口ニ申つめ候由候 其後色々尋申候へは今一人
      おくニ召遣候近所之小性御座候 其者文箱持て出加様ニ仕れと申付候により それが申ことく仕候由申ニ付
      其後又おくの小性と申候もの一人とらへ只今當地御町奉行之所ニ居申由候 それか口ハ一切沙汰無之候
    一 爰元町人共いつものことく日本之國わり仕之由候 其段可有推量候 宮内殿(池田忠雄)領分之國郡又肥後
      之國もはやあくニ落シ付て色々様々の事を申候 定而其元へも雑説聞え可申と存候事 

                           (二)へ続く

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YouTubeでみる「くまもと美の世界~細川文化に触れる~」

2012-06-09 10:11:16 | 熊本

江戸時代、約240年にわたって熊本の地を治めてきた細川家。歴代の藩主たちは、武人としてだけでなく、粋な文化人・教養人としても知られている。今回は、細川家がこの熊­本の地に残した多数の文化遺産をたどり、戦国の時代にその粋を花開かせた細川文化の真髄に迫る。

                              http://www.youtube.com/watch?v=xkM7ahcj_GI&feature=g-vrec

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佐々木小次郎はいたか

2012-06-08 15:00:50 | 徒然

 

この記事を拝見して、私は改めて福田正秀氏の「宮本武蔵 研究論文集」(平成15年12月19日 合・歴研発行)を読み返している。
氏は「加藤清正妻子の研究」の初巻・続巻の著者でも在られるが、一級史料その他を丹念に紐解き現場を訪ねられ、小説・講談の世界にあった矛盾を解き明かしておられる。吉川英治によって宮本武蔵は全国区の人となったが、小説の世界が定着しこの小次郎の存在なども、実在した人のごとく取り扱われている。
諸史料から対決自体が行われたのは事実だろうが、32年後に建立された手向山碑文の記述ではいささか傍証にかけるし、言い伝えによる信憑性は如何なものか。しかしながら歴史はロマンである。真実が解き明かされることはあるまいが、映画やTVで小次郎のツバメ返しの技を拝見するのも一興であろう。 

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ふじという女性(2)

2012-06-08 08:44:28 | 歴史

さきに「ふじという女性」を書いたので、(2)としてつづきとしたい。

齢を重ねるということは悲しいことで、「藤」なる人物をど忘れしていた。
東大の金子先生から、「忠興側室松之丸のことです」とご連絡いただき、メールを読みながら赤面してしまった。
郡宗保と娘・松之丸(藤)については何度も/\取り上げてきたのに・・・・・・・・・・・

そしてガラシャ夫人が「藤を正室として迎えないように」と言い置いたとする出典は、「子共の事ハ我為に子なれは忠興君の為にも子也、改め言におよハす、三宅藤兵衛事を頼候也、此上にいはれさる事なから藤を御上へ御直し不被成様ニとの事なり」(綿考輯録・刊本212頁)とのご教示もあわせて頂いた。
こちらはといえば、冷や汗物であった。
この文章はよく承知している。しかしながらここに登場する「藤」は前段の三宅藤兵衛に掛かっていると理解してきた。
改めてよくよく読んでみると、ご指摘のとおりである。私の勉強不足が露呈してしまった。
言い訳がましいが、「ガラシャの遺言に三宅藤兵衛を重臣として迎えないように」という解釈がある。その出自明智氏により、細川家に災いをもたらされない為とされている。「 藤を御上へ御直し不被成様ニ」がまさにそうであると思い込んでいたし、今もって三宅氏のご子孫が家訓として多くを語られないということもあるのだが・・・・大間違いであった。

「藤」なる人物は、「 郡主馬宗保か娘を乳母隠し置、後織田信澄の傍に召仕ハれ候を、明智光春の内方へ被遣、亦忠興君の御前様へ被遣候、おこほ殿を産たるお藤是なり、後松の丸殿と云う」とあるように、織田信澄(織田信長に殺された弟・信行の子)に嫁したガラシャの姉の元にいた人物であり、その後はガラシャ夫人に仕えた人物である。

なぜガラシャはこのような具体的な表現をしたのであろうか。藤(松之丸)が古保を生んだのはまさしくガラシャが三土野に隠棲させられた時期にあたる。
自分が人里はなれた三土野に送られた時期に、子をなしたことが受け入れられないのだろう。
強烈な忠興に対する抗議のメッセージである。その後忠興は松之丸を女・古保の嫁ぎ先である家老松井興長に預けることになる。 寛永六年六月十九日豊前小倉にて死去、ガラシャの死から29年後のことである。

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大河・・「ガラシャ夫人」の機運

2012-06-07 17:48:53 | 新聞

 ロゴマーク バナー用     http://kumanichi.com/news/local/main/20120607004.shtml

今日の熊本日々新聞夕刊は、NHK大河ドラマの「ガラシャ夫人」の機運が高まっていることを大きく報じている。
もともとは福知山市舞鶴市綾部市宮津市亀岡市長岡京市京丹後市大山崎町と、その関連団体が推進協議会を発足して活動を続けていたものだが、京都府、京都市、熊本県、篠山市、丹波市もオブザーバーとして参加したものである。

熊本は別途「加藤清正」を大河に推薦する活動を行っている。つまり熊本にとっては二つの候補があるということだが、悩ましいところではある。
新聞はどういう意図で報道しているのか判らないが、いい線をいっているということだろうか・・・

最近又ガラシャ夫人に触れることが多い当ブログだが、明日も一つupする予定である。

 

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宗孝刃傷の板倉勝該は御縁戚・・・?

2012-06-07 17:03:02 | 徒然


 この事に気づいて居られる方はいらっしゃるだろうか・・・・

    板倉勝該の細川宗孝に対する刃傷は、勝該は板倉本家の三つ巴九曜紋と細川家の九曜紋を見間違えたことが原因とされている。
    見間違えた板倉宗家の当主板倉勝清は後に老中まで上り詰めた人だが、その生母は細川興栄女である。すなわち板倉重同室であるが、後に離婚、     同族細川興誠室(興栄養子・姉小路大納言公量二男)となった。

 +--忠興--忠利--光尚--綱利--宣記--宗孝
  |
  |                  板倉重同--勝清
 |                    :
 +--興元--興昌--興隆--興榮--●==興虎
                       :
                      興誠 

    これが原因での不縁かと思ったらどうやらそうではないらしい。

 ちなみに家紋の見間違えではないとする見解がある。氏家幹人著「旗本御家人・驚きの幕臣社会の真実」によると、白銀において細川家と板倉家は隣同士であり、雨が降ると細川家の汚物ががけ下の板倉家に流れ込むという「環境問題のトラブル」によるものだという。(板倉事件の真相p200~210)
切絵図には父・重浮の「板クラ下ツケ(下野守)」で登場している。著者は現地を訪ねがけ下であることを確認されている。
真実の程は不明だが、説得力のあるお説である。 

 

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萬の双子の兄(弟)?の存在

2012-06-07 13:29:19 | 歴史

☆☆浮世絵-35- 古今名婦鏡 細川忠興妻 吟光 1枚

ガラシャ夫人が生害にあたり、二人の御子を殺害されたという一説がある。この錦絵はその一説を題材にしている。

光永文煕氏編の「平成宇土細川家系譜」を眺めていて、烏丸光賢に嫁いだ「萬姫」に双子の兄(弟?)がいることに気づいた。
「萬」の生母は明智次右衛門光忠女・小ヤゝである。この男子千丸の誕生日は「萬」同様慶長三年であるが、詳しい月日は判っていない。そして早世と書かれている。ガラシャ生害の時は三歳である。この人だと一瞬思ってしまったが「萬」が生きながらえていることを考えると、辻褄が合わない。それに今一人の女子の存在も不明である。所詮この話はありえない噂話なのだろうか・・・・
しかしながら、この錦絵を見ると切なくなってしまう。
 

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浪費家・萬どの

2012-06-06 19:17:02 | 歴史

 松本壽三郎先生の「肥後細川家侍帳(一)」の「御侍帳并軽輩末々共ニ」を見ると、「無役ニ出し被置知行」として十九人の人たちに壱万五千五百余石が給されている事が記されている。主なものは次のとおりである。

          五千石余            妙解院殿忠利公御前様奥ノ知行
          三千石              休無様
          二千石余            萬 三齋様御姫様烏丸大納言藤原光賢卿北ノ方
          千石               坊 (立允)
          千石               こぼ 三齋様御息女・長岡佐渡守興長室 

 この侍帳は限りを寛永九年十二月九日としているが(いわゆる小倉時代)、この時期とて細川家は手元不如意で、寛永五年二月には大阪の塩屋藤兵衛の女房なる人物が貸し金の取立てにわざわざ小倉に乗り込んだりしている。(福岡県史・近世史料編 細川小倉藩(一)p384) 忠利は妹萬に借金を申し込んでいるし、三齋とて同様でその死去後萬はお金は返済しなくても良いといっている。
京都での派手好みベスト3というものがあって、なんといっても一位は東福門院(秀忠娘和子)でこの着物道楽は並みの事ではなかったようだ。
後水尾上皇とは仲もよく長寿を保たれたが、この浪費癖は幕府に対してのあてつけとも思える。
後の二人の中に烏丸大納言廉中・萬の名前が登場するから驚きである。(熊倉功夫著・後水尾天皇)

烏丸家の俸禄は千石に満たない。萬がもたらす二千石が烏丸家にとっては誠にありがたい収入であることは云うまでもないが、その有り余る財産がこのような使われ方をされている事を知ると、納得がいかない。細川家中は手元不如意で喘いでいる。

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